塩のキャラバン

早朝、採掘現場に向かう塩のキャラバンと、上空を舞う一羽の鳥。エチオピア 2012年 エチオピア東北部、ダナキル砂漠。海面下115メートルに広がる塩の原野を、陽炎に揺らめきながらラクダキャラバンが行く。その数およそ400頭、1頭につき100キロ近い塩の板を載せられ、長蛇の列をなしひたすらエチオピア高原をめざすのは、いずれも屈強な牡ラクダばかりだ。高原に運ばれた塩の板は、原価の10倍前後で取引され、かつては貨幣替わりに流通していた。強烈な西日が落とす長い影を引きながらしばらく進むと、前方地平線にもう一隊のキャラバンが現れ、砂煙を上げながらこちらに向かってくる。明日塩を運ぶための空荷のキャラバンで、採掘地をめざし交差してゆく。ラクダ引きのティグレ族の男たちは、互いに顔見知りを見つけても声を掛け合うだけですぐにすれ違ってゆく。一定のリズムで進むキャラバンの歩調を乱すわけにはいかないからだ。 塩のキャラバンが活動するダナキル砂漠北部地域。私がエチオピアを頻繁に訪れていた1997年まで、もっとも危険な地域とされ立ち入ることが出来なかった。民族融和が進んで外国人にも開放された今、これだけは観ておかなくてはと熱望していたキャラバンが、今の時代に、これほどのスケールで動いていることに圧倒される思いだった。 2011年の暮れから約2ヶ月、エチオピアに行ってきた。1月7日に聖地ラリベラで祝われるクリスマス巡礼を撮り終えると、翌日にはティグレ州のマカレに移動し、キッチン・カーと呼んでいるコック付きのもう一台の車と合流して、ダナキル砂漠に向かった。塩の採掘地であるダロル周辺にはホテルも飲み水もないため、周到な準備なしでは旅行は不可能である。標高差2000メートルの山道を一挙に降るにしたがい、快適な高原の冷気が、肌にまとわりつく熱風に変わっていった。そして警護のために、武装した警官3人が途中の町から乗り込んできた。 ダロル一帯は、太古の時代に紅海の海水を閉じこめたまま隆起した土地で、激しい乾燥のために乾上がった塩の層が地表を覆い尽くしている。塩の切り出しに従事する男たちは、ハマデラという集落で寝起きし、未明に起き出し1時間ほど歩いて現場に行く。その数100人ほど、体力に自信のある若い男たちは、地獄の釜の底が耐え難い熱気に揺らめきだす前に仕事を終えようと、汗だくになりながら懸命にツルハシを振るい、30センチ四方ほどの大きさに揃えた塩の板をラクダキャラバンに引き渡すのである。 ハマデラの草小屋で寝起きしながら、連日、未明に起き出して採掘現場に行き、キャラバンを日没まで追う。熱風と砂ぼこりのなかで、体力を振り絞った撮影行は、すでに還暦を過ぎた体にはさすがにこたえた。それでも、こんな仕事をいまだに続けられていることに無上の喜びを感じながらシャッターを押し続けた。 塩のキャラバンは暑熱が耐え難くなる4月で終わり、摂氏50度を超す夏の気温が下降に向かう9月後半から、再び動き出す。

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岩窟聖堂の祈り

 

岩窟教会で知られる聖地ラリベラから山道を4時間走り、さらに断崖の踏み分け道を1時間半ほど歩いた絶海の孤島のような突端に、デブレ・アブナ・アーロンがあった。聖アーロン修道院(デブラ)とはいっても、そこは茫々と茂る草むらの中に、傾いた藁葺き小屋が5つ並ぶだけの侘びしいたたずまいで、わずか4人の修道士が寝起きしているだけであった。
あちらこちらに根を張った糸杉とオリーブは、樹齢千年に達しているかと思われる古株ばかり。燦々と降りそそぐ光のなか、奇怪によじれた枯れ枝では、まるで人工着色したような赤や緑の原色の小鳥たちが飛び交っており、そこは平安に満ちた不可思議な廃園という趣であった。
洞窟の聖堂を観せてほしいというと、午後の祈りの時間まで待つようにと言われた。
聖堂は、自然に出来た岩の洞窟を10メートルほど進んだ岩窟の中にあった。修道士のひとりは全盲であったが、身体で覚えているのであろう、暗闇の岩屋を跳ぶように進んでゆく彼のうしろを、私たちは手探りで歩いた。清めの香が薫かれ、天井にうがたれた縦穴からの仄かな明かりを頼りに、羊皮紙の聖書を掲げ祈りがはじまる。羊皮紙に手書きされた聖書は手垢に黒光りしており、何百年と使い込まれた祈りの気配が染みこんでいるかのようであった。
そして祈りがはじまって15分も経った頃、堂内がにわかに明るくなったかと思うと、突如として一条の光が垂直に射し込んできたのであった。縦穴を貫いた光が古色蒼然とした羊皮紙の表を徐々に移ろってゆく。修道士たちの祈りの声が、熱にうかされたように高まりしばらく続いていたかと思うと、十分ほどで光はぷつりと消えて聖堂は元の薄闇に戻ってしまった。劇的な光の演出であった。
祈りを終えた修道士たちの表情に、今日もまた、神の息吹に触れた安堵のようなものが見てとれた。修道士たちの言うには、外でどんなに激しく雨が降ってもこの縦穴からは一滴の雨も落ちてはこないという。岩窟の迷路を奥に辿ってゆくと、岩の窪みのそこここに白骨が放置してあった。歴代の修道士たちである。世界の涯に籠もって神の声に耳を傾けてきた人たちの末路の姿なのである。
エチオピア北部にはこのような岩窟の修道院や教会が無数に存在している。いずれも歴史遺産などではない現役の聖堂であって、朝な夕なに、蜜蝋のろうそくに灯されたか細い灯明を頼りに、聖書時代さながらの祈りが捧げられている。飢餓、貧困、部族抗争、、、創世記以来変わらぬ人の世の矛盾が刻印された土地にあっては、祈ることでしか交感できぬ深い闇と歓喜が幾重にも層を成しているのである。

*ユーラシアニュースに8年にわたって連載した「地平線の彼方より」は、先月100回をもって終了しましたが、連載終了を惜しむ声が多く、また初期の頃の作品を読んでみたい、との要望が寄せられました。そのためこのページで毎月一本のペースでしばらく掲載を続けることにいたします。

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最終回 ラダックの老僧


20代半ばでサハラを訪れ、その圧倒的なスケールと、過酷な風土を生き抜く人々の強靭さに魅了されたことが契機となって、これまでドキュメンタリー写真を撮り続けてきた。
1970年代前半、今から40年前の日本にはサハラ内陸部の情報など皆無に近く、いわば地図上の空白地帯にも等しい土地だった。それだけに、砂の地平で出会った人々の営みは鮮烈だった。
一本の井戸を頼りに、オアシスが恵んでくれるわずかな収穫を糧として、淡々と世代を重ねてきた人々。あるいは、砂と風に翻弄されながら家畜を追って寡黙に生きてきた遊牧民たち。人々の心を占めているのは、神によって生かされていることへの感謝と、神への畏れという感情であった。宗教などとは無縁な、古いものをどんどん脱ぎ捨てて行った先にこそ豊かさがあるとした、高度経済成長時代の世相のなかで育った者にとって、環境によって人間はこうも違ってくるのかという驚きがあった。
一方で、砂漠は私を虜にした。当時サハラを自由に旅するには、ヨーロッパで車を用意して持ちこむしかなかった。手間と時間のかかる旅だったが、砂漠に入ってしまえば、どこにキャンプを張るのも自由だった。どれほど暑い一日であっても、陽が傾くにつれ砂漠特有の放射冷却が作用して気温はみるみる下がってゆく。やがて陽が落ち、刻一刻と濃くなってゆく夕闇のなか、澄み渡った空一面を満天の星々が覆いつくす。生き物の気配も、音もない、乾ききった空間を何日も旅することで、他では感知できなかった精神空間を持てたと思う。
以来40年近く、好奇心のおもむくままにじつに頻繁に旅を重ねてきたが、息抜きのための観光旅行であったことは一度もない。常になにかを持ち帰るための旅であったし、集中して人間と向き合うために辺境の地を旅してきた。とくに、1980年代から’90年代半ばにかけて、日本でもグラフ誌の全盛期であり、年間のうち半分ちかくを海外取材に費やしてきたが、それは、地球上の辺境地域と日本という、極端から極端に振れる、振幅の大きな振り子運動を繰り返すのにも似たスリリングな日々の繰り返しだった。
継続的に訪れた土地は、サバンナの最奥地やエチオピア、チベット、サウジアラビアなどであったが、それぞれの土地に蓄積されてきた文化の原型が、最後の輝きを放っていた時代だったような気がする。それ以降も旅は続けているが、猛スピードで襲来したグローバリズムのなかで、どの土地にあっても、憑き物が落ちてしまったような印象を受けるのである。世界は平らに、フラットに、そして破格に便利で効率的になってしまった。それだけのために、風土に根ざした伝統文化がどれほど変質してしまったことか。
去年の11月に、17年ぶりにサハラに行ってきた。コック、ドライーバーとともに2週間にわたってキャンプをしながら砂の地平で過ごしたが、嬉しかったのは、むかし身体で覚えていた砂漠での感覚が、日々を重ねるにつれ甦ってきたことだった。砂と風と星々の空間で、自由を満喫できていることに感謝の気持ちでいっぱいになった。これからも体が動く限り旅を続けようと思う。
2002年12月以来8年に及んだ連載を、100回を区切りに幕を閉じることにしました。読者の皆さんにとってもよき旅が続くことを願いつつ。

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西ペルシア撮影ツアー



古代ペルシア以来の文化を受け継ぐイランには、多彩な風土と融合した様々な顔があります。今回は、2010年新たに世界遺産に登録された、中世以来のペルシアの市場を現在に受け継ぐタブリーズのバザールと、独特の暮らしを守るクルド人の村々を中心に、イラン西部の高原地域を巡ります。西側と一線を画して独自の路線を行くこの国には、悪しきグローバリズムの流れは波及しておらず、ペルシア独特の情感が脈々と流れています。

詳細は、

ザンスカール ラダックの旅-4


 ヒマラヤ山中を、東から西に流れるインダス川の渓谷に沿ったラダック地方とは、6000メートル級の山脈によって隔てられた、その南側を走る孤立した谷がザンスカールである。村々は、標高3500~4000メートルの谷あいに点在しており、農業と牧畜で7000人ほどが、昔ながらの暮らしを続けている。
 1980年になって峠越えの自動車道がようやく開通するまで、山越えでしか到達できない最辺境の地であった。道路が通じたとはいっても標高4400メートルのペンシラ峠は一年の半分は雪に閉ざされ、車が越えられるのは7月から11月上旬まで。その間でも雪が積もってしまえば、崖っぷちを縫うように走る、落石だらけの悪路に除雪などという手段はないため、道は自動的に閉鎖となる。ザンスカール地方は、孤立した谷あいにあって独特の文化を保持してきた。
 長い冬の間、外界との唯一の連絡路は、凍結したザンスカール川を、途中、洞窟などでビバークしながら100キロ以上も歩いて、ラダック中心の町レーを目指すのである。20年ほど前に、フランスの写真家、オリビエ・フェルミが、厳冬の氷原を行く村人たちを追跡した写真集を出版して話題になったことがある。大きな荷を背負って吹雪の川床をひたすら歩く村人たちの、生きる凄味に圧倒されたが、現在でも、冬のあいだに外界と接触する手段は、凍結した川床を歩いて脱出する以外にないのである。
 ラダック中心の町レーからザンスカールまでは、ザンスカール山脈を大きく迂回するかたちで、車で4日間の行程である。ラダック西部カルギル地区に入ると、それまでの仏教圏からイスラーム圏に変わり、人種、言語、村々の佇まい、服装までが、がらりと変わる。そこは、チベットから西に広がった仏教と、西方より浸透してきたイスラームの接点であり、あまりにも隔たりの深い二つの文化は、何世紀という歴史を経ても融合することなく、水と油のようにくっきりと層をなして一つの谷あいで接しており、そして紛争を繰り返してきた。さらに谷を取り巻く稜線の尾根は、インドとパキスタンが対峙するカシミール紛争の最前線でもあるのだ。
 それまで不殺生に徹した仏教圏のベジタリアンに慣れていた味覚に、カルギルのレストランで出てきた、こってりと煮込んだ羊肉料理が刺激的だった。だが距離にして70キロほど走ってザンスカールの仏教圏に差しかかると、人種も集落の佇まいも再びがらりと変わり、そして、豆と野菜を煮込んだだけの味気ないベジタリアンに戻ってしまった。
 ザンスカールへの最後の難関であるペンシラ峠では、眼下に長大な氷河を遠望でき、ヒマラヤの奥深さに心を打たれた。ところが、ザンスカール中心の町、パドムに到着する前後から、発熱と高血圧という、典型的な高地障害の症状に見舞われるようになった。20年以上も前からチベットに通い、高地には順応できる体質とタカをくくってきたが、すでに3週間近い高地での日々が、還暦を越えた身体に無理を強いているらしかった。僧院を訪れ、見るからに純朴な僧侶たちの日々の姿を撮影していたが、午後遅くになると決まって体調は悪化するばかりで、目的にしていた祭りまであと2日を残して、仕方なくザンスカールを去ることにした。
 それから4日後、デリーの空港に降りたってまもなく、症状は嘘のように回復したのだった。

ユーラシアニュース 連載99

パッド・ヤトラ ラダックの旅-3


7月1日午前6時過ぎ、ラダックの名刹、ヘミス僧院から数キロ離れた深い谷あいの道筋。日の出前、ヒマラヤの冷気が張りつめるなか、大勢の信者や村人たちが歓迎準備に立ち働いていた。道に沿って幟が立ち、護符を結んだロープが張られ、吉祥を意味する独特のデザインを、男たちが石灰を使って、慣れた手つきで路上に描いてゆく。
そしてカラフルな民族衣装をまとった女性たちは、ペラックと呼ばれる、長さ1メートル近いフェルト地に無数のトルコ石を飾った、ラダック独特の頭飾りを、独りでは難しいとみえて、仲間たちの手助けを得ながら、入念に装着している。年に3~4回だけ、よほどの晴れ舞台でのみ飾るペラックは、母から娘に代々受け継がれてきた、高価な家宝なのである。装身具としては見るからに大げさだが、浅黒く日焼けしたヒマラヤの女性たちの佇まいに、トルコ石の青が風格を添える。
ヤトラは、サンスクリット語で、旅や行進を意味する言葉で、「パッド・ヤトラ」は聖域巡礼を意味している。約2時間後に到着する巡礼団は、チベット仏教ドゥク派の最高位活仏である、ドゥプチェン・リンポチェ(第12代ギャロワン・ドルッパ)に率いられた一行で、じつに42日間をかけて5000メートルを超す雪山をはじめとして、ヒマラヤ山中の踏み分け道を越えてきた600人の僧尼からなる大規模なものだ。42歳になるドゥプチェン・リンポチェは、ネパールのカトマンドゥを本拠としているが、彼の先代は言うまでもなく、中国の弾圧を逃れたチベットからの亡命者である。
どの宗教にあっても巡礼の目的は、罪状消滅、心身の清めが第一義であるが、パッド・ヤトラでは、偉大な先人たちが修行を積んだ高山の庵や洞窟などの聖跡への巡礼と、谷あいの村人たちへの説法を主要な目的としたものだ。それに加えて、ハイカーたちが捨てていった、ペットボトルや空き缶類の回収といった、聖域清掃を兼ねたものでもあるのだ。連日のキャンプのために300頭もの馬が荷運びをし、その世話のために300人を超すボランティアが付き従った巨大な巡礼団が組織されているのである。
午前8時過ぎ、正装の僧侶たち一行が列をなし、香が焚かれ、聖なる綿布であるカタックの束を抱えた男たちが出迎えるなか、谷あいの道を長蛇の列が徐々に近づいてくるにつれ、「オン・マニ・ペメ・フム」の祈りの大合唱が地鳴りとなって沸きあがる。やがて列の中ほどに、日傘に守られ、真っ黒に日焼けして笑みをたたえた、ドゥプチェン・リンポチェの姿を仰ぎ見た信者たちの多くは、合掌し歓喜の涙を滲ませながら迎えていた。チベット仏教では、ダライ・ラマを筆頭とする高僧個人への帰依心がことのほか濃密であり、どこの家庭の仏壇にも帰依する高僧たちの写真が祭られ、日々祈りが捧げられている。こうして、困難な巡礼を貫徹したドゥプチェン・リンポチェの姿を間近に仰ぐことができ、放心状態で、溢れでる涙のなかでただただ合掌するしかない女性信者たちの帰依心の深さに接していると、不覚にも、ファインダーを覗いている当方の目頭にも熱いものが伝わってきた。
僧尼の一行のなかには、ヨーロッパや東南アジアからの参加者も多く、チベットを追われたことで世界に広がったチベット仏教の並々ならぬ浸透力を見せつけられる思いだった。ドゥプチェン・リンポチェ到着の翌日、へミス僧院ではラダック最大の祭礼が催された。

ユーラシアニュース 連載98

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石窟寺院 ラダックの旅-2


 色づいた大麦が涼風に揺れる棚田のあぜ道を、清流ほとばしる水路に沿って登って行くと、ポプラ並木が途切れて開けた視野のなかに、砂礫むき出しの急峻な崖が立ちはだかっていた。日本語のガイドブックだけを頼りに、半信半疑のガイドにそばの一軒家に聞きに行ってもらうと、石窟はたしかにこの崖の上にあるという。雪解け水で喉をうるおして小休止した後、私たちは斜面の登りにかかった。距離にして200メートルにも満たない急斜面だったが、容赦なく照りつけるなか、標高3500メートルの山道ではたちまち息があがり、最後は這うようにして石窟の入り口に辿り着いたのだった。
 ドアのない小さな入り口をくぐった途端、そこに出現したあまりに意外な光景に息を呑んだ。なんと色鮮やかな、西方浄土を思わせる壮麗な壁画が、こんな場所にひっそりと息づいていたのである。大人の身長の高さで、広さはせいぜい6畳間といったところか。壁面はすべて壁画で埋めつくされている。さらに意外だったのは、灯明台に小さなバター灯明がひっそりと灯されてあった。つい先刻、祈りに訪れた村人が灯していったに違いなかった。石窟の存在をはじめて知ったというガイドも、これほどの石窟が、今も祈りの場として脈々と受け継がれてきたことに不意を突かれている様子だった。
 日本語のガイドブックによると、石窟寺院の名前は、ニダプク・ゴンパ。それにしても、旅行人という版元から出ている、『ラダック』ガイド(著者・高木辛哉)における僧院情報の徹底さには恐れ入る。主要な僧院はすべて図解のうえ、仏画諸尊の名前を微に入り細に入りすべて網羅してあり、このニダブク・ゴンパの壁画の場合は、制作は15~16世紀頃のものであろうことにも言及している。写真を観ればわかるように、天井は砂礫むき出しの荒々しい石窟にあって、漆喰を塗り固めた壁面に、なんとも色鮮やかな浄土世界が描きこまれていることか。
 ニダプク・ゴンパのあるこの場からインダス川で隔てられた対岸に、世界的な仏教美術の宝庫である、アルチ・チョスコル・ゴンパがある。チベットの仏教は10世紀にいったん衰退したのち、西チベットに成立したグゲ王国を中心に復興されてゆく。アルチ・チョスコルには、その時代背景のなかで制作された、一級の曼荼羅や塑像が数多く残されている。ただ残念なことに、3年ほど前から同ゴンパでの撮影は全面禁止されてしまっている。
 一方、グゲ王国文化を色濃く残したチベット側のツァパランなどには、中国による支配以前、壮麗な寺院が何カ所も残されていたが、それらを含む、全チベットにあった6000カ所の寺は、文化大革命の号令一下、一部を残してすべて破壊し尽くされてしまった。1991年にツァパランを訪ねたことがあるが、涅槃の笑みを浮かべた、観音菩薩をはじめとする美しい塑像たちが、胴体を割られ、腕をもぎ取られたまま薄暗い堂内に鎮座している様は、政治運動の狂気に翻弄された人間たちの愚かさを告発しているかのようだった。
 俗に”小チベット”と呼ばれてきたラダックでは、むろん宗教弾圧など起こるわけはなく、どこの寺院も創建以来の姿で手厚く守られてきたことは言うまでもない。ただラダックは人口も少なく、チベットと比較すれば寺院も小規模であり、その点でも、政治運動の狂気によって失われてしまったチベット文化のスケールを、ラダックに来て改めて認識させられた次第である。

ユーラシアニュース 連載97

フォトフェスティバル続報


 9月1日からプロフェッショナル週間が本格的にスタートして、参加する写真家たちの数もどっと増えた。昼間は、テレビ、新聞のインタビュー、そしてギャラリートークをこなして、夕刻になると、National Geographicをはじめとするメジャー雑誌主催のカクテルパーティーに出かける。写真家、編集者たちで溢れかえるその席で、D,D,Duncanと Jhon Morrisから私の写真展を絶賛されたのには驚いた。D,D,Dは、LIFE誌の特派で朝鮮戦争を取材し、数々の名作を残したことで知られているが、その折にニッコールのレンズを使ってその優秀性を証明してくれたことで、日本のカメラが世界に飛躍するきっかけを作ってくれた、カメラ業界にとっては大恩人でもある。もう一人のJohn Morrisは、LIFE誌をはじめとするグラフジャーナル編集の先駆者である。ふたりとも93歳、94歳 という超高齢にもかかわらず、フォトジャーナリズムの熱気に惹かれてPerpignanまで来ていることが凄い。
 翌日にはLE FIGARO誌のパーティーがあった。ごったがえしている会場に行くと、驚いたことに、刷り上がったばかりの最新号が見開いてずらりと並べられてあり、なんとその写真が、私の「砂丘を歩く少年」なのである。FIGAROが「NOMACHI特集」をやるとの不確かな情報を出発前から聞いてはいたが、8ページの特集記事をパーティー会場で、本人がはじめて目にするなど、驚きあきれるほかはない。他にもSunday Times誌、PHOTO誌にもナイル、メッカが見開きで掲載されており、その他数え切れないくらいに露出していたことは、今年のPerpignanで私の仕事がかなりの注目を集めたということだろう。
 大御所ではWilliam Kleinが、杖をつきながら写真展会場をじっくりまわっており、そして多くの若手たちが、作品とパソコンを抱えて、各通信社のブースや編集者に食い下がって売り込みを図っている。そして毎夜9時50分からは、幅30メートルはあろう巨大スクリーンで、ハイチ震災やメキシコ湾原油流出、アイスランドの火山噴火をはじめとする”生写真”やD,D,Dの朝鮮戦争が圧倒的迫力で映写される。
そして様々な賞の受賞者たちが、各々8000Euroの賞金小切手を高々と掲げて、晴れがましくスポットライトを浴びる。
 近年になく刺激に満ちた一週間だった。日本の若い写真家たちにもぜひ参加してほしいものだと思う。
 —– 9月5日、暮れゆく地中海沿いを、PerpignanからBarcelonaに向かう列車のなかで—-

David Douglas Duncan

William Klein

VISA POUR L’IMAGE 2010 PERPIGNAN

ペルピニアン・フォトフェスティバル2010


 フォトフェスティバル(22nd International Festival Of Photojournalism )で写真展の招待を受け8月28日からフランスのペルピニアンに来ている。フランス西南部、スペイン国境に近く、カタルニア文化の影響を色濃く残した古都であるが、9月12日までの2週間、街はフォトジャーナリズム一色に染まる。PARIS MATCH、National Geographic 、GEOなど欧米の主要グラフメディアをはじめとする編集者、フォト・エージェンシー、そして、新人、ベテランを交えた大勢のフォトジャーナリストたちが世界中から駆けつけている。
 フェスティバルの呼び物は、世界報道写真展をはじめとして同時開催される27の写真展である。教会や中世然とした倉庫などを活用した8カ所の会場に分散するそれぞれの個展は、全紙サイズで50点を単位としており、それに規模の大きな報道写真展を加えると、招待作品だけで優に1500点に及ぶ大規模なものだ。それ以外にも通りのカフェの壁面などを使った自主制作展が到る所で開催されており、今年で22回目を数える主要な写真展には20万人が足を運ぶ。展示作品は、戦争、犯罪、環境問題などを扱ったシリアスで重量級の作品が多く、じっくり見てゆくとさすがに疲れる。だがどの会場でも、一般の観客たちが、キャプションを読みながら写真とじっくり向き合っており、欧米社会におけるフォトジャーナリズムの裾野の広さが、まだまだ健在であることを実感させられる思いである。
 金融危機以降、雑誌広告が細ったこととインターネットなどのメディアに押され、苦闘がささやかれる欧米のグラフ雑誌であるが、それでもミリオンに近い部数を保っているメジャー誌がフランスやドイツでは健闘している。グラフメディアが壊滅して、フォトジャーナリズムが死語と化してしまった日本から来ると、写真を受容する社会の厚みを実感させられる思いだ。
 そして夜になると、広場に設けられた特大のスクリーンを使った、趣向を凝らしたショーが夜ごと繰り広げられる。
 街を歩いていると、見ず知らずの人たちにしばしば呼び止められ、「砂漠を歩く少年の写真がすばらしい」とか「メッカにどうやって入ったのか」などと訊かれる。展示作品の解説パネルに写真家の顔写真があり、しかも滅多にいない日本人であることからすぐに顔が割れてしまう。日本では無いことだ。
 ちなみにフォトフェスティバルへの日本人写真家の招待は、3年前の長倉洋海さんに次いで私が二人目だという。実は1998年に一度招待されたことがあったが、日程が合わなかったうえに、ペルピニアン?フォトフェスティバルについて何の知識も持っておらず流してしまったという経緯があった。
 今はリタイアしているNational Geographic誌の編集者と14年ぶりに再会して旧交を温めるなど、様々な出会いを楽しんでいる。ペルピニアンも夏は暑いと聞いていたが、日射しは強いものの、酷暑の東京とは比較にならない涼しさで、夜は上着なしでは肌寒いくらいだ。

http://www.visapourlimage.com/index.do

雪山獅子旗 ラダックの旅-1


 2009年7月6日。標高4500メートル、中国(チベット)国境まで50キロのインド領チベット高原。
 眼下に、コバルトブルーの湖を抱くようにひらけた、高原砂漠の真っ只中。臨時に設けた祭壇に掲げられたダライ・ラマ肖像と向き合って、チベットの国歌が高らかに歌われている。そして頭上には、たった今ポールに上ったばかりの真新しい国旗”雪山獅子旗”が、抜けるような天空に鮮やかに映えわたる。
 失われてしまった雪の国「観音菩薩の浄土」を讃えて歌っているのは、300人ほどのチベット難民たちだ。遊牧を生業としながら、この近くの谷あいに集落をなしている。全員が起立し、帰るに帰れなくなった故国を間近に臨みながら、観音菩薩の化身、ダライ・ラマ14世の74回目の誕生日を、彼らはこうして厳かに祝っている。
 中国の強権支配下にあるチベットでは、チベット国旗の掲揚は重罪に相当する。そのうえ現在では、ダライ・ラマの肖像写真を所持しているだけで犯罪者扱いにされる。チベットを広く歩き、深くて終わりのないその苦悩を知る一人として、ここがインド領であるとはいえ、まぎれもないチベット高原に、禁断の”雪山獅子旗”が堂々とはためく様は胸に迫りくるものがあった。
北インドのラダックに来て10日ほどになる。ヒマラヤ一円に広がるチベット文化圏を広く見てみようと思いつき、俗に”小チベット”と呼ばれているラダックに来てみた。私がこの地を訪れた目的は、伝統的に受け継がれてきたラダックのチベット仏教をじっくり見たいと考えたからだ。歴代ダライ・ラマによって統治されてきた仏教国チベットが1949年以来中国の侵攻を受け、仏教への弾圧が強まるなか、1959年にダライ・ラマがインドに亡命して、チベット国が消滅したことは広く知られている。その後吹き荒れた文化大革命によって、信仰は禁じられ、6000カ所あったチベットの僧院の大半が破壊されてしまった。1980年代以降に僧院の多くが再建され、信仰も自由になったが、飽くまでも中国共産党による管理下という括弧付きの自由に過ぎない。そのうえ最近は、流入した多くの漢人を中心に、開発が急速に進み、仏教信仰を軸とした伝統チベット文化は激変を遂げつつある。
 チベット本土を広範囲に歩いたのは20年近く前のことだ。2000年以降東チベットにも行っているが、とくにこの5~6年来、中国の経済発展がもたらした急速な開発により、チベット本土は激烈な変化の波に晒されている。チベットはユニークな土地だ。極限高地の厳しい風土に培われた生命観を核心とするチベットの仏教文化は、物欲という麻薬に汚染されてしまった混迷の現代世界を映してみる格好の鏡であると私は考える。決して滅ぼしてはならない、かけがえのない人類の知恵なのである。中国支配地域の外にもチベット文化圏は広がっている。この際、自由に息づいているチベット文化の様々な顔を見てみようと思ったのである。
 国を失ったダライ・ラマにとって、熱烈な仏教信仰の地であるラダックは、重要な橋頭堡となっている。レー郊外には頻繁に訪れる離宮が設けられており、またラダック各地を訪れ、大規模な法要や説法を毎年のように開催している。

ユーラシアニュース 連載96

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