パッド・ヤトラ ラダックの旅-3


7月1日午前6時過ぎ、ラダックの名刹、ヘミス僧院から数キロ離れた深い谷あいの道筋。日の出前、ヒマラヤの冷気が張りつめるなか、大勢の信者や村人たちが歓迎準備に立ち働いていた。道に沿って幟が立ち、護符を結んだロープが張られ、吉祥を意味する独特のデザインを、男たちが石灰を使って、慣れた手つきで路上に描いてゆく。
そしてカラフルな民族衣装をまとった女性たちは、ペラックと呼ばれる、長さ1メートル近いフェルト地に無数のトルコ石を飾った、ラダック独特の頭飾りを、独りでは難しいとみえて、仲間たちの手助けを得ながら、入念に装着している。年に3~4回だけ、よほどの晴れ舞台でのみ飾るペラックは、母から娘に代々受け継がれてきた、高価な家宝なのである。装身具としては見るからに大げさだが、浅黒く日焼けしたヒマラヤの女性たちの佇まいに、トルコ石の青が風格を添える。
ヤトラは、サンスクリット語で、旅や行進を意味する言葉で、「パッド・ヤトラ」は聖域巡礼を意味している。約2時間後に到着する巡礼団は、チベット仏教ドゥク派の最高位活仏である、ドゥプチェン・リンポチェ(第12代ギャロワン・ドルッパ)に率いられた一行で、じつに42日間をかけて5000メートルを超す雪山をはじめとして、ヒマラヤ山中の踏み分け道を越えてきた600人の僧尼からなる大規模なものだ。42歳になるドゥプチェン・リンポチェは、ネパールのカトマンドゥを本拠としているが、彼の先代は言うまでもなく、中国の弾圧を逃れたチベットからの亡命者である。
どの宗教にあっても巡礼の目的は、罪状消滅、心身の清めが第一義であるが、パッド・ヤトラでは、偉大な先人たちが修行を積んだ高山の庵や洞窟などの聖跡への巡礼と、谷あいの村人たちへの説法を主要な目的としたものだ。それに加えて、ハイカーたちが捨てていった、ペットボトルや空き缶類の回収といった、聖域清掃を兼ねたものでもあるのだ。連日のキャンプのために300頭もの馬が荷運びをし、その世話のために300人を超すボランティアが付き従った巨大な巡礼団が組織されているのである。
午前8時過ぎ、正装の僧侶たち一行が列をなし、香が焚かれ、聖なる綿布であるカタックの束を抱えた男たちが出迎えるなか、谷あいの道を長蛇の列が徐々に近づいてくるにつれ、「オン・マニ・ペメ・フム」の祈りの大合唱が地鳴りとなって沸きあがる。やがて列の中ほどに、日傘に守られ、真っ黒に日焼けして笑みをたたえた、ドゥプチェン・リンポチェの姿を仰ぎ見た信者たちの多くは、合掌し歓喜の涙を滲ませながら迎えていた。チベット仏教では、ダライ・ラマを筆頭とする高僧個人への帰依心がことのほか濃密であり、どこの家庭の仏壇にも帰依する高僧たちの写真が祭られ、日々祈りが捧げられている。こうして、困難な巡礼を貫徹したドゥプチェン・リンポチェの姿を間近に仰ぐことができ、放心状態で、溢れでる涙のなかでただただ合掌するしかない女性信者たちの帰依心の深さに接していると、不覚にも、ファインダーを覗いている当方の目頭にも熱いものが伝わってきた。
僧尼の一行のなかには、ヨーロッパや東南アジアからの参加者も多く、チベットを追われたことで世界に広がったチベット仏教の並々ならぬ浸透力を見せつけられる思いだった。ドゥプチェン・リンポチェ到着の翌日、へミス僧院ではラダック最大の祭礼が催された。

ユーラシアニュース 連載98

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石窟寺院 ラダックの旅-2


 色づいた大麦が涼風に揺れる棚田のあぜ道を、清流ほとばしる水路に沿って登って行くと、ポプラ並木が途切れて開けた視野のなかに、砂礫むき出しの急峻な崖が立ちはだかっていた。日本語のガイドブックだけを頼りに、半信半疑のガイドにそばの一軒家に聞きに行ってもらうと、石窟はたしかにこの崖の上にあるという。雪解け水で喉をうるおして小休止した後、私たちは斜面の登りにかかった。距離にして200メートルにも満たない急斜面だったが、容赦なく照りつけるなか、標高3500メートルの山道ではたちまち息があがり、最後は這うようにして石窟の入り口に辿り着いたのだった。
 ドアのない小さな入り口をくぐった途端、そこに出現したあまりに意外な光景に息を呑んだ。なんと色鮮やかな、西方浄土を思わせる壮麗な壁画が、こんな場所にひっそりと息づいていたのである。大人の身長の高さで、広さはせいぜい6畳間といったところか。壁面はすべて壁画で埋めつくされている。さらに意外だったのは、灯明台に小さなバター灯明がひっそりと灯されてあった。つい先刻、祈りに訪れた村人が灯していったに違いなかった。石窟の存在をはじめて知ったというガイドも、これほどの石窟が、今も祈りの場として脈々と受け継がれてきたことに不意を突かれている様子だった。
 日本語のガイドブックによると、石窟寺院の名前は、ニダプク・ゴンパ。それにしても、旅行人という版元から出ている、『ラダック』ガイド(著者・高木辛哉)における僧院情報の徹底さには恐れ入る。主要な僧院はすべて図解のうえ、仏画諸尊の名前を微に入り細に入りすべて網羅してあり、このニダブク・ゴンパの壁画の場合は、制作は15~16世紀頃のものであろうことにも言及している。写真を観ればわかるように、天井は砂礫むき出しの荒々しい石窟にあって、漆喰を塗り固めた壁面に、なんとも色鮮やかな浄土世界が描きこまれていることか。
 ニダプク・ゴンパのあるこの場からインダス川で隔てられた対岸に、世界的な仏教美術の宝庫である、アルチ・チョスコル・ゴンパがある。チベットの仏教は10世紀にいったん衰退したのち、西チベットに成立したグゲ王国を中心に復興されてゆく。アルチ・チョスコルには、その時代背景のなかで制作された、一級の曼荼羅や塑像が数多く残されている。ただ残念なことに、3年ほど前から同ゴンパでの撮影は全面禁止されてしまっている。
 一方、グゲ王国文化を色濃く残したチベット側のツァパランなどには、中国による支配以前、壮麗な寺院が何カ所も残されていたが、それらを含む、全チベットにあった6000カ所の寺は、文化大革命の号令一下、一部を残してすべて破壊し尽くされてしまった。1991年にツァパランを訪ねたことがあるが、涅槃の笑みを浮かべた、観音菩薩をはじめとする美しい塑像たちが、胴体を割られ、腕をもぎ取られたまま薄暗い堂内に鎮座している様は、政治運動の狂気に翻弄された人間たちの愚かさを告発しているかのようだった。
 俗に”小チベット”と呼ばれてきたラダックでは、むろん宗教弾圧など起こるわけはなく、どこの寺院も創建以来の姿で手厚く守られてきたことは言うまでもない。ただラダックは人口も少なく、チベットと比較すれば寺院も小規模であり、その点でも、政治運動の狂気によって失われてしまったチベット文化のスケールを、ラダックに来て改めて認識させられた次第である。

ユーラシアニュース 連載97

雪山獅子旗 ラダックの旅-1


 2009年7月6日。標高4500メートル、中国(チベット)国境まで50キロのインド領チベット高原。
 眼下に、コバルトブルーの湖を抱くようにひらけた、高原砂漠の真っ只中。臨時に設けた祭壇に掲げられたダライ・ラマ肖像と向き合って、チベットの国歌が高らかに歌われている。そして頭上には、たった今ポールに上ったばかりの真新しい国旗”雪山獅子旗”が、抜けるような天空に鮮やかに映えわたる。
 失われてしまった雪の国「観音菩薩の浄土」を讃えて歌っているのは、300人ほどのチベット難民たちだ。遊牧を生業としながら、この近くの谷あいに集落をなしている。全員が起立し、帰るに帰れなくなった故国を間近に臨みながら、観音菩薩の化身、ダライ・ラマ14世の74回目の誕生日を、彼らはこうして厳かに祝っている。
 中国の強権支配下にあるチベットでは、チベット国旗の掲揚は重罪に相当する。そのうえ現在では、ダライ・ラマの肖像写真を所持しているだけで犯罪者扱いにされる。チベットを広く歩き、深くて終わりのないその苦悩を知る一人として、ここがインド領であるとはいえ、まぎれもないチベット高原に、禁断の”雪山獅子旗”が堂々とはためく様は胸に迫りくるものがあった。
北インドのラダックに来て10日ほどになる。ヒマラヤ一円に広がるチベット文化圏を広く見てみようと思いつき、俗に”小チベット”と呼ばれているラダックに来てみた。私がこの地を訪れた目的は、伝統的に受け継がれてきたラダックのチベット仏教をじっくり見たいと考えたからだ。歴代ダライ・ラマによって統治されてきた仏教国チベットが1949年以来中国の侵攻を受け、仏教への弾圧が強まるなか、1959年にダライ・ラマがインドに亡命して、チベット国が消滅したことは広く知られている。その後吹き荒れた文化大革命によって、信仰は禁じられ、6000カ所あったチベットの僧院の大半が破壊されてしまった。1980年代以降に僧院の多くが再建され、信仰も自由になったが、飽くまでも中国共産党による管理下という括弧付きの自由に過ぎない。そのうえ最近は、流入した多くの漢人を中心に、開発が急速に進み、仏教信仰を軸とした伝統チベット文化は激変を遂げつつある。
 チベット本土を広範囲に歩いたのは20年近く前のことだ。2000年以降東チベットにも行っているが、とくにこの5~6年来、中国の経済発展がもたらした急速な開発により、チベット本土は激烈な変化の波に晒されている。チベットはユニークな土地だ。極限高地の厳しい風土に培われた生命観を核心とするチベットの仏教文化は、物欲という麻薬に汚染されてしまった混迷の現代世界を映してみる格好の鏡であると私は考える。決して滅ぼしてはならない、かけがえのない人類の知恵なのである。中国支配地域の外にもチベット文化圏は広がっている。この際、自由に息づいているチベット文化の様々な顔を見てみようと思ったのである。
 国を失ったダライ・ラマにとって、熱烈な仏教信仰の地であるラダックは、重要な橋頭堡となっている。レー郊外には頻繁に訪れる離宮が設けられており、またラダック各地を訪れ、大規模な法要や説法を毎年のように開催している。

ユーラシアニュース 連載96

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十字架の岩窟教会 エチオピアの旅-3


 ラリベラには、凝灰岩を掘り抜いた11の教会がある。12世紀から13世紀にかけて君臨した、ザグウェ王朝のラリベラ王が、「新たなエルサレムを築け」という神の夢告にしたがって建造をはじめたと伝えられる。その時代、キリスト教国エチオピアは、周りをイスラーム圏に取り巻かれ孤立しており、エルサレムへの巡礼が困難を来していた。岩窟教会はいずれも大規模なもので、周囲を12メートルほど掘り下げて建造された写真の、ベタ(教会の意)・ゲオルギウスでも、十字架の中が掘り抜かれて礼拝堂になっている。
 この教会から前日に運び出されて、広場に張られた「会見の幕舎」に安置され、夜を徹して祈りが捧げられた二枚のタボットは、午前10時過ぎ、吹き鳴らされる角笛を合図に、錦に包まれ司祭の頭上に載せられて、教会への、2キロほどの帰路の行進がはじまった。十字架と、馬上から龍を退治するセント・ジョージの大きなキャンバスに先導された行列が進むに従い、村人たちが次々に加わり、巨大な流れに膨れあがっていった。
 そして道半ばに差しかかったところで行進は停止して、タボットを清める薫香が焚かれ、司祭たちのダンスがはじまった。女性たちが一斉に、舌を小刻みに震わせる〈エレレレレレ、、、〉という甲高い裏声、エラルを発して神を讃えると、着飾った30人ほどの司祭が2列に向き合って、シストラムを振る、シャン、シャンという金属音でリズムをとりながら、独特の調子で歌いはじめた。遠い古代からのリズムというか、どこの音楽とも似ておらず、強いて探すなら、日本の御詠歌に近い調べである。程なくしてケベロと呼ばれる、牛革を張った太鼓が加わり、力強く、次第に速くなるテンポに煽られるように、2つの列は前後に一進一退を繰り返しながら、司祭たちのダンスは熱を帯びていく。
 ―― ダビデとイスラエルの全家は、琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った ――
 これは、旧約聖書、サムエル記下が伝える、契約の箱を前にした古代ユダヤ教の儀礼を記述したものであるが、目の前で繰り広げられているのは、まさに3000年昔の宗教儀礼の再現なのである。現在のイスラエルにもない、古代ユダヤ教直系の信仰が息づいている、エチオピアでしか観ることのできない旧約聖書の世界である。はじめてエチオピアを訪れた1981年以来、これまで何度も観てきた踊りであるが、17年ぶりで久々に眺めながら、3000年昔に伝えられて以来、エチオピア高原で独自に醸成された信仰の厚みを再確認する思いであった。
 さらに2度、道中でダンスが披露された後、出発から2時間を費やして、タボットはようやくベタ・ゲオルギウスに戻ってきた。高原の太陽が容赦なく降り注ぐなか、教会の周りは辛抱強く待つ村人たちによって埋めつくされていた。タボットの入場とともに、女性たちが一斉に発するエレルが、ひとしきり、蝉時雨のように沸きあがる。鮮やかな日傘に守られたタボットが定位置に着くと、教会の縁に整列した司祭たちのダンスがはじまった。御詠歌に似たテンポで司祭たちの歌が延々と流れるが、ここでは道中で観られたような熱狂が沸きあがることなく、シストラムを振るたびに発する、シャン、シャンというリズムに合わせて神を讃えるダンスが、あたかも羊皮紙を束ねた3000年の史書をめくり続けるかのように、厳かに、そして淡々と繰り広げられたのであった。

ユーラシアニュース 連載95

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会見の幕舎 エチオピアの旅-2


 岩盤を掘り抜いた大規模な岩窟教会で知られる、エチオピア正教の聖地ラリベラ。早くから世界遺産に登録されながら(1978年登録)、内戦のために閉ざされ荒廃していたが、今やエチオピア最大の観光地と化して、その変貌ぶりには目を見張るものがあった。以前の倍以上にも拡張した町のあちこちには観光ホテルが建ち、登校する子どもたちは、誰もが真新しい制服を着て、垢抜けして晴れ晴れとしており、苦難の時代などまったく知らぬ新世代が育ちつつあることを実感させられた。思えば豊かになったものだと。
 私がはじめて訪れた1981年当時、ラリベラは言葉に絶するほどに貧しかった。村人の大半は、汚れて擦りきれたボロボロの民族衣装をまとい、大半が裸足だった。傾きかけたトタン屋根の粗末な家々が軒を寄せ合う集落は、あっけらかんとした文字どおり乞食部落であった。
 ’81年当時の定期便はDC-3型機だった。飛行中、機体の隙間から轟音と寒風が吹きこんでくる恐怖の定期便が着陸したラリベラの滑走路は、モロコシを収穫した後のむきだしの畑そのもので、畑も道路もぬかるむ雨期になると、交通が途絶する最果ての地であった。
 ’83年からは、ティグレ解放戦線の支配地域となったために立ち入ることはできず、そして翌年’84年に起こった大飢餓では、周辺の山岳から集結した難民であふれかえり、さながら暗黒の中世の様相を呈していた。そしてミサの度に教会に押し寄せるボロをまとった難民たちが、生存を賭して捧げる一途な祈りの姿には、剥きだしの魂の深淵を見る思いだった。
 以前は国営だったロハ・ホテルに入って、なんとも懐かしいものに再会した。それは’81年に私がラリベラで撮影した写真を使って制作された、政府観光局のポスターである。前回’97年に来たときにも同じ場所に掲げられていて、当時大学生になっていた、写真の少年僧と再会して時代の流れを実感したことだった。あれからさらに13年を経て、手垢がついてやや色褪せたポスターをしげしげと眺めながら、薄暗い廊下の一角で、今後も生き続けるに違いない、まるで岩窟教会のイコンのような存在と化した自分の作品に、エチオピアに流れている永遠の時間を思い感慨深いものがあった。この作品は、ゲオルギウス・アツビという、聖ゲオルギウス(セント・ジョージ)を讃える祭礼を撮影したものであるが、じつは今回の旅は、この祭りの日程に合わせるかたちで企画されたものである。
 モーゼがシナイ山で神から授かった十戒の石版を収めたアークは、現在もエチオピアに秘蔵されていると信じられている。エチオピア正教では、各教会の至聖所に、十戒の石版のレプリカであるタボットが、御神体同然に収められている。祭りになると、タボットは錦に包まれ司祭の頭上に載せて運び出され、広場に張られた会見の幕舎に一晩収められて、信者たちは熱烈な祈りを捧げる。古代ユダヤ教より受け継がれた、旧約聖書の典礼が、3000年の時を越えてエチオピアでは受け継がれているのである。
 1月25日午後、鋭い日射しが降り注ぐなか、カラフルな日傘に守られてタボットの行進がはじまった。

                                   ユーラシアニュース 連載94

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タラ・ベット(タラ酒バー) エチオピアの旅-1


 今年の1月、エチオピアに行ってきた。最後に訪れたのが1997年であったから13年ぶりということになる。青ナイルの取材でエチオピア高原にはじめて行ったのは1980年のこと。それまで北アフリカで慣れ親しんでいた、砂漠のイスラーム文化圏とはまったく異質な、エチオピア高原独自のキリスト教文化との出会いは私にとって鮮烈だった。その後10回訪れ、延べにして12ヶ月をこの国で過ごしてきた。
 ’91年に現在の政権が内戦に勝利して権力を掌握するまで、独裁的な社会主義政権のもと、エチオピア各地で反乱が勃発し、内戦に疲弊して経済はどん底に喘いでいた。’84年には、旱魃に端を発した飢餓が全土を覆い、100万人が餓死するという、暗黒の中世のような悲惨に見舞われ、貧困アフリカの象徴としてレッテルを貼られてしまっていた。だが貧しさの中にも、篤い信仰心に裏打ちされた独特の情緒があふれていて、中世か聖書時代にタイムスリップしたかのような不思議な輝きを私は感じていた。
 そのエチオピアがようやく安定し、経済の好転が伝えられるようになったのは5~6年前からのことだ。さらにこの2年ほどは、産油国を除いたアフリカ諸国のなかでもっとも高い経済成長をとげているというから、苦難の時代を骨身にしみて知っている私のような者にとっては、これは奇蹟と言うしかない変わりようである。
 そんな折り、或る旅行社から、撮影ツアーの講師としてエチオピアに行かないかと誘われたのだった。わずか1週間の滞在であったが、高層ビルがあちこちに建設中の首都アディスアベバの変貌ぶりに驚嘆する一方で、農村や地方都市の下町などに流れている、伸びやかで人情味あふれる昔ながらのエチオピアに郷愁をそそられた日々だった。
 北部に行って、どこまでも完全舗装された街道に時代の流れを感じた。昔は、内戦の激しかった北部一帯の、砂埃舞うがたがた道のそばには、戦車や軍用車の残骸があちこちに放置されていた。反政府軍の攻撃を受けて敗走した、士気の上がらぬ旧政府軍の兵器である。一方で蔓延する飢餓を思いながら、これら戦車一両のカネで、いったい何万人の子どもが救えただろうかと暗澹たる気持ちで眺めたことだった。内戦終結から20年近く経ち、戦車の残骸はさすがに片付けられていたが、交通量のほとんどないアスファルトの道を、ひたすら歩いてゆく村人たちの姿は、昔と変わらぬ光景だった。
 エチオピアではどの地方に行っても、週に一度、大規模な定期市が開かれている。家畜からあらゆる日用品まで取引される定期市は、村人たちにとっては数少ない現金収入の機会であり、格好の情報交換の場なのである。一羽の鶏や、ヒョウタン容器に詰めた蜂蜜などを抱え、あるいは手ぶらのままで、近郊の村々から、ときには半日をかけて市の開かれる村まで歩いてくるのである。一様に手編みのくすんだ綿布を着た集団が、列をなし足早に歩く姿に、以前に遭遇した難民たちの姿が一瞬オーバーラップして見えた。
 市に来た村人たちの楽しみは、この写真のように、一杯のタラ酒をたしなむことだ。大麦を発酵させた昔ながらのビールである。そして夕刻、高原特有の強い日射しがつくる長い影を引きながら、ささやかな楽しみに満ち足りて、やや千鳥足ぎみに、長い道のりを帰って行く村人たちの姿は昔と変わりなかった。

ユーラシアニュース 連載93

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月の砂漠 リビア砂漠の旅-3


 光がフラット過ぎて撮影に適さない日中に移動して、撮影とキャンプに良い場所を選び、夕方と翌早朝に撮影をしてまた移動する、そんな日々を15日間繰り返し旅を続けた。
 リビアは、西欧諸国と激しく対立を繰り返し、1999年までの10年間、国連決議によりすべての国際便のリビア発着禁止という厳しい制裁下に置かれていた。そんないきさつがあるために観光開発は遅れ、南部の砂漠地帯に観光ホテルは皆無に等しい。それでも何カ所かにキャンプ場が設営されており、4、5日ごとにシャワーが使えた。涼しくて乾燥しているためにそれで十分だった。
 旅の最後の3日間をウバリの大砂丘で過ごした。リビア南西部のフェザンには、ムルズク、ウバリという世界最大級の砂丘地帯が2カ所に広がっている。さらにウバリには、果てしなく続く砂丘を越えたはるか奥地に、湧き水による4カ所の湖が秘められている。写真のように、褐色の砂丘の狭間に出現する奇跡の景観、ヤシの緑に縁取られたコバルトブルーの湖は、旅行者必見のスポットとなっている。湖に至る砂丘の道は、ときには45度の急斜面もあり、ジェットコースターなみにスリル満点だったが、ベテランドライバーは、巧みな運転技術で砂丘をぐんぐん越えてゆく。
 月明かりに浮かぶ夜の砂丘は、昼間とは別世界だ。旅を始めて一週間ほどは闇夜が続いたが、月が一日ごとに大きくなるに従い、夜間撮影に忙しくなってきた。そして上弦の月にまで満ちてきたウバリでは、砂の反射により、写真のような夢幻空間が現出した。さらに月が満ちてくると、夜空が明るすぎて星明かりは消えてしまうのだ。高感度に強い最新のデジタルカメラは、肉眼で見たままの夜景を鮮やかに写し撮ってくれる。フイルム時代には考えられなかったショットである。
 連日3度の食事を賄ってくれるコックの存在はありがたかった。コック兼ガイドのアハメッドは、マリのトンブクツーから逃れてきたトゥアレグ族の難民だ。黒人主流の政府軍との抗争により、20年ほど前から、ニジェール、マリから逃れてきた多くのトゥアレグ族がリビア、アルジェリアに定着している。40代半ばに達しているのに、金もなく、結婚できないとぼやくアハメッドは、人生の苦汁を舐めているだけに気配りのできる男だった。夜の撮影を終え、疲れ切ってキャンプに戻ると温かい夕食が用意されていた。メニューは、クスクス、マカロニ、ごった煮スープなど、変わり映えのしない5種類程度のローテーションだったが、食後に淹れてくれる濃密な茶をすすりながら、冴えわたる月光を堪能しているだけで身も心も満たされた。
 これまで地球上の様々な砂漠を体験してきたが、サハラが他と違うのは、この砂の広がりである。何万年という時間のなかで、風に削られ、飛ばされ、ぶつかり合って摩耗し、極限の微粒子と化した均一な石英粒子の、圧倒的な堆積である。極限にまで乾いているために、手ですくうと砂はサラサラと流れ落ちる。風も音もない、ただ月光だけが冴え冴えと降り注ぐ、真空のような世界を呼吸しながら、20代で知ったこの限りない自由を、40年後のいま追体験しながら、眠りにつける幸せを私は感じていた。

ユーラシアニュース 連載92

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アカクス リビア砂漠の旅-2

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 今回の旅の目的は、アルジェリアとの国境に近いアカクスの先史時代壁画、刻画を撮影することだった。サハラは、今から8000年ほど前から約5000年間、緑に覆われた肥沃な土地だった。アフリカでもっとも恵まれた気候帯に属していたその時代、おびただしい数の野生動物が生息し、狩猟民や牛牧民が暮らしていた。
 国境を挟んでアルジェリア側の山岳地帯、タッシリ・ナジェールには、その時代に描かれたおびただしい数の岩壁画が残されている。約8000年にわたって描き続けられた壁画には、気候の変動とともに移り住んできた様々な民族の暮らしとその興亡が描かれており、サハラの過去を知る壮大な考古学絵巻となっている。
 20代から30代にかけて、私は、タッシリの山岳をラクダキャラバンを組んで何度も探索し、主要な壁画を撮影してきた。これまで部分的には発表してきたものの、全容をまとめる機会がなかったため、この度、リビア側のアカクスにある壁画も加えて一冊にまとめることを思い立ったのである。
 タッシリ・ナジェールと違い、アカクスの壁画は自動車で回ることができる。荒々しい岩山と砂丘が織りなす風景も素晴らしく、数台のランドクルーザーを連ねた旅行者グループにあちこちで出会った。以前なら、砂漠奥地への旅など無縁と思われる白人の高齢者グループなどと出会うたびに、地球上に秘境など無くなってしまったことをしみじみ実感させられる思いだった。アカクスは、サハラの中でも最奥地であり、本来、到達するには相当の覚悟と旅の技術が必要なはずであったが、今や空港に降り立ち、出迎えの車に乗りこみさえすれば、海沿いのリゾートに行くのと変わらぬ感覚で着いてしまうのだ。
 ワディ(涸河)・マトハンドゥシェの崖に残された多くの線刻画は素晴らしかったが、タッシリ・ナジェールに比べてアカクスの壁画は、時代的にも後期のものが多く、また描写技法も劣っていた。さらに、なんということか、主要な壁画が集中する3カ所の岩壁が、黒のスプレーを吹き付けられ消し去られていたのである!事件が起きたのは一年前、犯人は35歳のリビア人観光ガイドだというから呆れてしまう。世界遺産に登録された貴重な岩壁画も、スプレーをじかに吹き付けられたのではひとたまりもない。
 現在も服役中という犯人は、イタリア人経営の旅行社でこき使われるうちに、精神的におかしくなったとか諸説あるらしかったが、無人の岩陰に残された壁画など、守りようのないのが実情だろう。昔からトゥアレグ族に守られ、彼らの案内なしでは誰も到達できないタッシリ・ナジェールと違って、近年になって観光化したアカクスでは、誰でも自由に車で出入りできる。そのせいか、壁画のすぐそばなどに真新しいアラビア語の落書きが何カ所もあったのは、民度の違いかも知れないと思った。
 テント暮らしの旅をはじめて8日目、トラブルが起こった。車の車軸部分に不具合が起こり、代わりの車を呼ぶことになったのである。そこは砂漠の相当奥地であったが、運転手は、一番高い砂丘に車を乗り上げると、やおら携帯で通話を始めたのである。試しに私も携帯にスイッチを入れ日本を呼び出してみると、なんと地平線の真っ只中というのに、ごく通常の感覚で妻の声が聞こえてくるではないか!私はあっけにとられ、いま自分がどこに立っているかを興奮ぎみにまくしたてるのだが、こうして携帯が通じている以上、サハラは、もはや秘境ではないことを思い知らされたのであった。

ユーラシアニュース 連載91

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地平線  リビア砂漠の旅-1


 リビア南部、フェザン地方の砂漠に行ってきた。サハラへの旅は1993年以来、そしてフェザンを訪れるのは、実に1975年以来のことだ。あの時は、ヨーロッパからランドローバーを持ち込んで、アルジェリア、ニジェールなどに半年以上滞在した後、リビアからチャドのチベスティー目指して南下しようとしていた。リビア南部の国境警察で、チベスティーは政情不安で危険だと説得され、かわりにチャドから北上してくるラクダキャラバンを追跡しながら北に戻っていったことだった。
 1993年にも、やはりチベスティーに行こうとして、ランドローバーでチュニジアから首都のトリポリに入ったが、リビアの工作員が1988年に起こした、パンナム機爆破事件に対する国連制裁が来週にも発令されるという、緊迫したタイミングにぶつかってしまった。日本大使館から即刻出国を求められ、泣く泣く退却していったという苦い思いがある。
 カダフィーのリビアがすっかり温和しくなり、観光誘致をはじめたのは10年ほど前からのことだ。だが日本で情報を集めようとすると、パスポートへのアラビア語併記だの、個人旅行の制約といった、面倒な話ばかりでうんざりしているところに、紹介されたトリポリの現地旅行社とコンタクトしてみると、何もしなくてよろしい、ビザは空港で取れるよう手配するから手ぶらで来ればいい、とのことだった。
 旅程など確認のEメールを6,7回交わしたあげく、ドバイ乗り継ぎでトリポリに到着。砂漠の町セブハに夜のフライトで降り立った翌朝9時には、ガイド兼コックとドライバーと3人で、キャンプ用具一式を満載したランドクルーザーで、地平線に向かい走っていたのである。最初の目的地は、リビア砂漠最奥部にある巨大クレーター、ワウ・アンナムス、2日間のドライブだ。昼過ぎまで走ったところで舗装道路が終わり砂の道に突入した。ナツメヤシの木陰で簡単な昼食をすませたあと、再び走り始めた私たちは、程なくして360度砂の地平線のなか、”永遠のサハラ”の真っ只中に突入していったのである。
 ベテランドライバーは、深い砂の地平を快調に飛ばしてゆく。タイヤが軟弱な砂を捉えるたびに、水上をゆくモーターボートが軽くバウンドを繰り返すのに似た、砂地独特の揺れを感じながら、久々に砂漠を走る興奮がよみがえってきたのだった。むかし自分でハンドルを握っていた当時なら、恐怖が先に立ち、たった一台ではとうてい乗り出してはゆけない地平線の道である。
 それにしても、サハラの旅がなんとイージーにできる時代になってしまったことか。1970年代から’80年代にかけての頃、サハラを自由に走ろうと思えば、まずロンドンでランドローバーの中古車を購入してヨーロッパを南下し、装備を調えて、マルセイユからフェリーでアルジェに向け出港するところから始まったものだった。
 季節は11月、まったく暑くはなく昼間でもせいぜい摂氏25度といったところか。極度に乾燥しているため、汗をかくこともなくいたって快適だ。陽が傾くにつれ肌寒くなってきた。夕刻まで走り、砂地にテントを張った。月は無く、闇が濃くなるにつれ、サハラならではの凄い星空が天空を覆いつくした。マットレスに横たわり、小さなグラスに注がれた俗にリビア・ウイスキーと呼ぶ濃厚な茶を、生のウィスキーさながらに、チビリ、チビリ煽ると、独特の甘さと苦みが臓腑に染み入った。こうして久々に、”サハラ”を呼吸する至福にひたったのだった。

ユーラシアニュース連載 90

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シェイフ・ロトフォッラー・モスク


 イラン中部高原の古都エスファハーン。サファビー朝の全盛期であった16~17世紀にかけて、”エスファハーンは世界の半分”と讃えらたほどに栄華を極めた。イスラーム建築の最高傑作といわれるイマーム・モスク、壮大なバザール空間、そして王宮をはじめとする当時の建造物は、400年昔の栄光をしのばせながら現在に息づいている。
 それら歴史的建造物が集中するイマーム広場の一角に、シェイフ・ロトゥフォッラー・モスクがある。レバノンの著名な聖職者であったシェイフ・ロトフォッラーを迎えるために建造したもので、彼の娘は、後に国王アッバース1世と結婚した。このモスクには、モスクと一体化した、祈りを呼びかけるための塔も中庭もない。民衆に対しては閉じられた、王族専用の祈りの場として造られた贅を尽くした空間なのである。イラン独得の鍾乳石飾りが美しい門をくぐると、モスク入り口にしては一風変わった薄暗い回廊が通じていて、角を折れると、そこに唐突にきらびやかな礼拝堂が現れた。
 広さはせいぜい直径8メートルといったところか、抜けるような青を基調とした華麗なモザイク模様が、天頂のドームに向かって八方からせり上がっていた。小さな彩色タイル片を巧みに組み上げた、唐草模様、花々、そしてコーランの聖句を綴った流麗なアラビア文字といったモチーフが一分の隙もなく壁を埋め尽くしている。それら彩色タイルの一片はどれも数センチ角の大きさに過ぎない。完成までに17年の歳月を要し、気の遠くなるジグゾーパズルのあげくに構築されたイスラーム宇宙空間なのである。絶妙の造形は、眺めていて溜息をつくしかない美しさであった。
 12月のある朝、キリッと張りつめた冷気のなかを、明かり取り窓から射した光芒が、神の息吹を想わせる温もりとなって壁面を移ろっていた。
 祈りの方角、すなはちメッカの方向を指すミフラーブと呼ばれる壁の窪みはあるものの、ここは、厳格な絶対神、アッラーにひれ伏すモスク本来の抽象空間というよりも、神のしもべたることの至福に浸り、美の陶酔に身を委ねる幻想の空間なのである。偶像の存在を赦さぬモスクには珍しく、ドーム天頂には孔雀の塑像が置かれてあり、正面側に立つと、尾羽に相当する部分が、淡い反射光を受けてモザイク上に輝くという、心憎い演出までなされてあった。
 これまでにイスラーム圏を広く歩き、様々な様式のモスクを観てきたが、神の威光への陶酔を想わせる、これほどまでの美に対する執着には、シーア派というイラン的なイスラーム信仰が濃厚な影を落としているといわれる。イランには、伝統的な信仰から発展したゾロアスター教が紀元前千年頃に興り、イスラームによって征服されるまで大いに栄えていた。光と闇が格闘し、最後には正義が勝利して来世において甦るという思想は、のちの諸宗教の発展に多大な影響を与えた。そうして培われた、思考においては論理的、感覚的には極度に幻想的なイラン人的な側面(井筒俊彦氏指摘)が、アラビアで誕生した”乾いたイスラーム”に奥行きと内面性をもたらし、シーア派という独自の信仰体系を組み上げていったのである。
 ちなみにシーア派をイランの国教と定めたのは、16世紀にサファビー朝を興して全国統一を成し遂げたイスマイール1世であった。

ユーラシアニュース「地平線の彼方へ」-連載89

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