16年ぶりのサハラ

 
リビア南部、フェザン地方の砂漠に行ってきた。サハラへは’93年以来、フェザンを訪れるのは実に1975年以来のことだ。あの時はリビアからチャドのチベスティーに行こうとしていたが、リビア南部の国境警察で、チベスティーは政情不安で危ないからやめたほうがいいと説得され、かわりにチャドから北上してくるラクダキャラバンを追跡しながら北に戻っていったことだった。
 34年も昔のことだから当たり前のことだが、舗装道路が縦横に走り、すっかり近代化した現在のフェザンに当時の面影はなかった。産油国の好景気に沸くリビアでは、砂漠の村々でも建設ラッシュだったが、今回意外だったのは、中国からの出稼ぎ労働者が大挙押しかけていて、中国語の安全標語などがあちこちの砂漠に掲げられていた。34年前のときも建築ブームで、エジプトからの出稼ぎが大半だった。アラブの盟主で、かつ古代文明を背負っていることを自認するエジプト人たちは、そのうち石油が枯れてしまえばリビアはもとの砂漠に戻ってしまうだけだ、とやっかみ半分に、働きもしないのに家がもらえる、恵まれた村人たちを蔑視していた。中国人たちも”石油が枯れてしまえば”と、同じ思いで砂漠の住人たちを見下げているに違いないが、サウジにしろ、リビアにしろ、いっこうに石油が枯れる気配はなく、世界はオイルダラーに支配され続けている。
 それにしても、サハラの旅がなんとイージーに出来る時代になってしまったことか。紹介されたトリポリの旅行社とEメールを6,7回交わした後、ドバイ乗り継ぎで入国の翌朝には、ガイド兼コックとドライバーと3人で、キャンプ用具一式を満載したランドクルーザーで、地平線に向かって走っていたのである。ナツメヤシの木陰で昼食をすませたあと、360度砂の地平線のなか、”永遠のサハラ”の真っ只中に私は立っていた。
 むかしサハラの旅となると、ヨーロッパでランドローバーを用意して装備を調え、マルセイユからフェリーで地中海を渡るところから始まった。そうする以外に、サハラを自由に走る手だてはなかったものだ。
 季節は11月、夜間少々寒いことを我慢すれば、これほど快適な季節はない。日中もまったく暑さはなく25度℃と行ったところか。砂嵐の季節でもなく、少々風が吹いていても夕刻にはぴたりと止んだ。5時前にはその日のドライブを終え、きれいな砂地を選んでテントを張り、まず濃いお茶を一杯点てたあとで、トゥアレグ族のコックは夕餉の支度に取りかかる。マリからの難民である彼は苦労が身にしみているだけに気配りを心得ていた。 日没後徐々に冴え渡り、輝きを増してゆく満天の星々。さらに旅の後半からは、夜ごとに満ちてゆく月明かりのもと、夜の砂漠が深みを増していった。あと4,5日も待てば月明かりで手相さえ読むことの出来る満月を迎えたが、その前に旅程が尽きてしまった。ひんやりとした手触りの砂丘に座して、永遠の時間と交感できる幸せを久々に実感したことだった。
 それにしても15日間連続のテント暮らしは少々きつかった。気分は20代のサハラ体験の頃と変わらないつもりだが、すでに63年も生きているのだから、、、

乗り継ぎ便を待つドバイ空港にて

野町和嘉オフィシャルサイト

砂丘に登る

「ユーラシアニュース」地平線の彼方より-連載84

 それは1973年4月のことだったと記憶している。二度目のサハラの旅で、私は、アルジェリア西部の或る小さなオアシスに滞在していた。オアシスのすぐ外には高さ100メートルにも達する砂丘がせまっており、その上に立つと地平線まで続く壮大な砂の海を遠望できた。
 灼き尽くす太陽が西に傾きようやく一息ついたある日の午後遅く、私は撮影するために、親しくなった16歳の若者と二人で砂丘に登った。砂の地平を茜色に染めながら刻一刻と変化してゆく壮大な夕景に熱中し撮り終えてふと気がつくと、先ほどまで悪ふざけを言い合っていた快活な若者の姿が消えていた。
 どこに消えたのかと不思議に思い小さな砂の丘を越えてみると、若者はそこに立って夕べの祈りに没頭していた。東の方角に向かって深々と一礼してひざまずき、額ずいて、そして立ち上がって祈りを口ずさんでいる。それは意外な姿だった。つい先ほどまで見せていた幼さの残る少年の面影は消え、神とじかに向き合っているその五体からは、凛とした砂漠の男の威厳がにじみ出ていた。
 暮れ行く地平線の真っ只中で、そばに立った私の姿など眼中になく、繰り返し額ずく若者の額から鼻筋にかけて、べっとりと付着した黄金の砂粒が、祈りに没頭する忘我の境地を象徴しているかのようだった。折しも、若者が向き合ったメッカの方角には、地平線上に昇ったばかりの満月が煌々と輝きを放っていた。美しい光景だった。そこでは、大いなるものと裸の魂が、広大な空間のなか、何らの介在もなしにじかに向き合っていた。砂漠という風土のなかで営まれてきた精神性の深みに、私がふれた最初の光景であったと思う。 乾燥の極地に点在するオアシスで暮らす人々にとって、生命線はひとつの泉である。枯れることのない泉こそは神の賜物であり、生かすも滅ぼすも神の意志ひとつであるとする明解な信仰がそこでは生き続けていた。人々の祈りには、日々、無事に生かされていることへの感謝が滲み出ていた。
 一方で、砂と風と星々の煌めく砂漠は私を魅了した。熱気が張りつめていた地平線のなか、陽が傾くにつれ砂漠特有の放射冷却が作用しはじめ、気温はみるみる下がっていく。日暮れの前に走行を切り上げ、夕べの優しさに包まれた砂地にマットレスを敷き横たわっているだけで、熱気に痛めつけられ弛緩していた神経は回復してゆくのだった。やがて陽は落ち、刻一刻と濃くなってゆく夕闇のなか、澄み渡った空一面に星々が煌めきはじめる。生きものの気配もなく、物音ひとつしない空間のなかで時の流れを刻むのは、天空を覆いつくす星々の動きのみである。
 そんな空間に自分が身を置いていることの不思議に思いをめぐらせていたとき、この天空はるかに宇宙的スケールですべてを司るなにかが存在するかも知れない、という思いを受け入れるのに違和感はなかった。あるいはこうも考えた。一枚の紙の表と裏のような関係で、私たちには感知できないもう一つの世界が存在しているのではないだろうか、と。 砂漠というところは、日常の中では眠ったままのある感性を呼び覚ましてくれる不思議空間でもあった。

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北緯29° 6′ 14.50″/西経1° 3′ 8.84″

北緯29° 6′ 14.50″/西経1° 3′ 8.84″

Google Earthがおもしろい。
私が常用しているデスク・トップのモニターは、ナナオのCG241W。24インチの大型で相当に高性能なものであるから、この画面でどんどんズームアップしてゆくと、地上の諸相をかなりのディテールまで読みとることが出来る。

夜中などに、しばしばこのEarthのなかに探索にでかけるのだが、私が焦点を合わせるのは決まって北アフリカである。20代から30代にかけて、ヨーロッパから持ち込んだ4WDを駆って、悪戦苦闘しながら走り回った、サハラの地平線やナイル川沿いの悪路を、30年後のいま、宇宙からの眼で、まるでパラシュートで降下するような感覚で、ズームインしながら追体験するのは、それはそれでスリリングな体験だ。

1970年代の日本から見れば、アフリカの内陸部は、地図上の空白地帯に等しいくらいに情報は乏しかった。唯一信頼に足るミシュランの道路地図を頼りに、オアシスからオアシスへ、陽炎にゆらめくサハラの地平線に踏みだしていった。そして熱気がやわらいだ夜、満天の星空のもと、沈黙の空間のなかで癒されながら何ヶ月も旅を続けた。そのルートをGoogle Earthで追体験しながら、当時、ナツメヤシの木陰に土壁の小屋が並ぶだけのうら寂しいオアシスが、いまや空港を備えた都市に変貌してしまっていることに嘆息したり、時間の止まったままの”永遠のサハラ”のようなオアシスに遭遇し、かつてそこで過ごした日々が、まるで昨日のことのように鮮明に甦ってくる記憶に遊びながら、しばし夜の更けるのを忘れるのである。

ここに添付した「砂丘の谷間の植物」、この写真は、はじめてサハラに行ったときのものだが、撮影場所を、Google Earthで特定できたときの興奮を忘れることができない。

その日の前後を記した拙文をここに引用してみよう(「サハラ縦走」岩波書店、同時代ライブラリー、1993年刊行より)。

- 2日目の夕刻、私たちは最終目的地アドラルを折り返し、北に向かって走っていた。
夜の砂漠を走る。それは奇妙なドライブ感覚だ。月明かりにかろうじて判別のつく地平線のなか、ふたつのヘッドライトに照らし出される前方20~30メートルの黒いアスファルトだけが視界にあった。連日の強行軍で2人とも疲労の極にあったが、神経だけは研ぎ澄まされていた。2人のうちどちらがハンドルを握っていたのか想い出せないが、いずれにせよ2人とも、前方の光のなかだけを睨んでいた。ハンドルを握って、手と足を小刻みに動かしている方が、まだしもその重圧を紛らすことができた。
大きなカーブを曲がるたびに、私たちは方向感覚を失った。今、北に向かっているはずだったが、逆方向だと思いこんでしまうと、もうそれを打ち消す根拠はないように思われた。しかし再び直線に戻ると、月はもとの位置に確実に静止しているのだった。
そのうち車は、長い長い急坂の登りにかかった。坂を登り切ると急に開けた視界のなかに、またもや大きな砂山が飛び込んできた。月の光を受けてそこだけがぼうっと輝いていた。どちらからともなく、その砂丘の麓をキャンプ地に決めた。岩と小石のゴツゴツした広がりのなかで、そこだけが軟らかく迎え入れてくれているようだった。軟弱な砂地を注意深く奥まで入り込み、エンジンを止めると、耳鳴り以外の何物をも捉えることはできなかった。
そこは不思議と落ち着ける空間だった。思った以上に高い砂丘は、無限定の空間を分ける屏風のようなかたちで私たちの背後を取り巻き、そこだけが砂の反射で明るかった。月の輝きは冴え冴えとした白さであったが、その明かりを受けた砂は濃い褐色に輝き、まわりは微動だにせぬ夜の冷気が蔽っていた。昼間灼かれた砂の表面はもう冷え切っていたが、軟らかい砂に手を突っ込んでみると、わずかな温もりがまだ残っていた。残り少ない酒を飲み干し、毛布にくるまって2人で砂地に座った。 夜の砂漠。頭の芯に突き刺さる太陽の光も、砂嵐の激しさもない、もう一つの砂漠の顔である。砂漠には、中途半端な退屈な時間はどこにも見あたらないようだった。その夜も狭い車のなかで明かした。

翌朝、日の出とともに目覚めると、私たちは背後の砂丘に登った。軟らかい砂に踝までうまりながらやっと頂にたどり着くと、前方にもっと高い砂山があった。その頂に立つと、一段と高い別の砂山がさらに前方に控えていた。砂の斜面は大変歩きづらく、心臓はもう破裂寸前にまで高鳴っていたけれども、2人ともある種の義務感に駆られて、ただひたすら登り続けた。
私たちはピークに立った。そこから俯瞰した眺めはすばらしかった。砂丘のうねりは予想をはるかに超え、地平線の彼方にまで続いていた。朝日の下、逆光に見る砂丘は褐色ではなく、深い湿度をたたえたいぶし銀の輝きであった。-

この植物とは早朝の砂丘の谷間で出会った。その後サハラには何度も行っているが、これほどフォトジェニックな植物とは出会っていない。地平線の彼方まで続く砂丘は永遠かと思われたが、Google Earthでみると、すぐ先にはワディ(枯河)がひろがっていて砂丘は途切れていることがわかる。その時一緒に旅した伊豆倉義弘は、1993年に亡くなった。サハラに初めて行ったのは1972年2月のこと、フリーになった翌年で2人とも25歳だった。

ちなみにその地点は、北緯29°6′ 14.50″・西経1°3′ 8.84″ 。アルジェリア南西部、Kerzazのオアシスから30分ほど南下した場所だ。今秋にでも、もう一度サハラに旅してみたいと思っている。

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