月の砂漠 リビア砂漠の旅-3


 光がフラット過ぎて撮影に適さない日中に移動して、撮影とキャンプに良い場所を選び、夕方と翌早朝に撮影をしてまた移動する、そんな日々を15日間繰り返し旅を続けた。
 リビアは、西欧諸国と激しく対立を繰り返し、1999年までの10年間、国連決議によりすべての国際便のリビア発着禁止という厳しい制裁下に置かれていた。そんないきさつがあるために観光開発は遅れ、南部の砂漠地帯に観光ホテルは皆無に等しい。それでも何カ所かにキャンプ場が設営されており、4、5日ごとにシャワーが使えた。涼しくて乾燥しているためにそれで十分だった。
 旅の最後の3日間をウバリの大砂丘で過ごした。リビア南西部のフェザンには、ムルズク、ウバリという世界最大級の砂丘地帯が2カ所に広がっている。さらにウバリには、果てしなく続く砂丘を越えたはるか奥地に、湧き水による4カ所の湖が秘められている。写真のように、褐色の砂丘の狭間に出現する奇跡の景観、ヤシの緑に縁取られたコバルトブルーの湖は、旅行者必見のスポットとなっている。湖に至る砂丘の道は、ときには45度の急斜面もあり、ジェットコースターなみにスリル満点だったが、ベテランドライバーは、巧みな運転技術で砂丘をぐんぐん越えてゆく。
 月明かりに浮かぶ夜の砂丘は、昼間とは別世界だ。旅を始めて一週間ほどは闇夜が続いたが、月が一日ごとに大きくなるに従い、夜間撮影に忙しくなってきた。そして上弦の月にまで満ちてきたウバリでは、砂の反射により、写真のような夢幻空間が現出した。さらに月が満ちてくると、夜空が明るすぎて星明かりは消えてしまうのだ。高感度に強い最新のデジタルカメラは、肉眼で見たままの夜景を鮮やかに写し撮ってくれる。フイルム時代には考えられなかったショットである。
 連日3度の食事を賄ってくれるコックの存在はありがたかった。コック兼ガイドのアハメッドは、マリのトンブクツーから逃れてきたトゥアレグ族の難民だ。黒人主流の政府軍との抗争により、20年ほど前から、ニジェール、マリから逃れてきた多くのトゥアレグ族がリビア、アルジェリアに定着している。40代半ばに達しているのに、金もなく、結婚できないとぼやくアハメッドは、人生の苦汁を舐めているだけに気配りのできる男だった。夜の撮影を終え、疲れ切ってキャンプに戻ると温かい夕食が用意されていた。メニューは、クスクス、マカロニ、ごった煮スープなど、変わり映えのしない5種類程度のローテーションだったが、食後に淹れてくれる濃密な茶をすすりながら、冴えわたる月光を堪能しているだけで身も心も満たされた。
 これまで地球上の様々な砂漠を体験してきたが、サハラが他と違うのは、この砂の広がりである。何万年という時間のなかで、風に削られ、飛ばされ、ぶつかり合って摩耗し、極限の微粒子と化した均一な石英粒子の、圧倒的な堆積である。極限にまで乾いているために、手ですくうと砂はサラサラと流れ落ちる。風も音もない、ただ月光だけが冴え冴えと降り注ぐ、真空のような世界を呼吸しながら、20代で知ったこの限りない自由を、40年後のいま追体験しながら、眠りにつける幸せを私は感じていた。

ユーラシアニュース 連載92

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アカクス リビア砂漠の旅-2

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 今回の旅の目的は、アルジェリアとの国境に近いアカクスの先史時代壁画、刻画を撮影することだった。サハラは、今から8000年ほど前から約5000年間、緑に覆われた肥沃な土地だった。アフリカでもっとも恵まれた気候帯に属していたその時代、おびただしい数の野生動物が生息し、狩猟民や牛牧民が暮らしていた。
 国境を挟んでアルジェリア側の山岳地帯、タッシリ・ナジェールには、その時代に描かれたおびただしい数の岩壁画が残されている。約8000年にわたって描き続けられた壁画には、気候の変動とともに移り住んできた様々な民族の暮らしとその興亡が描かれており、サハラの過去を知る壮大な考古学絵巻となっている。
 20代から30代にかけて、私は、タッシリの山岳をラクダキャラバンを組んで何度も探索し、主要な壁画を撮影してきた。これまで部分的には発表してきたものの、全容をまとめる機会がなかったため、この度、リビア側のアカクスにある壁画も加えて一冊にまとめることを思い立ったのである。
 タッシリ・ナジェールと違い、アカクスの壁画は自動車で回ることができる。荒々しい岩山と砂丘が織りなす風景も素晴らしく、数台のランドクルーザーを連ねた旅行者グループにあちこちで出会った。以前なら、砂漠奥地への旅など無縁と思われる白人の高齢者グループなどと出会うたびに、地球上に秘境など無くなってしまったことをしみじみ実感させられる思いだった。アカクスは、サハラの中でも最奥地であり、本来、到達するには相当の覚悟と旅の技術が必要なはずであったが、今や空港に降り立ち、出迎えの車に乗りこみさえすれば、海沿いのリゾートに行くのと変わらぬ感覚で着いてしまうのだ。
 ワディ(涸河)・マトハンドゥシェの崖に残された多くの線刻画は素晴らしかったが、タッシリ・ナジェールに比べてアカクスの壁画は、時代的にも後期のものが多く、また描写技法も劣っていた。さらに、なんということか、主要な壁画が集中する3カ所の岩壁が、黒のスプレーを吹き付けられ消し去られていたのである!事件が起きたのは一年前、犯人は35歳のリビア人観光ガイドだというから呆れてしまう。世界遺産に登録された貴重な岩壁画も、スプレーをじかに吹き付けられたのではひとたまりもない。
 現在も服役中という犯人は、イタリア人経営の旅行社でこき使われるうちに、精神的におかしくなったとか諸説あるらしかったが、無人の岩陰に残された壁画など、守りようのないのが実情だろう。昔からトゥアレグ族に守られ、彼らの案内なしでは誰も到達できないタッシリ・ナジェールと違って、近年になって観光化したアカクスでは、誰でも自由に車で出入りできる。そのせいか、壁画のすぐそばなどに真新しいアラビア語の落書きが何カ所もあったのは、民度の違いかも知れないと思った。
 テント暮らしの旅をはじめて8日目、トラブルが起こった。車の車軸部分に不具合が起こり、代わりの車を呼ぶことになったのである。そこは砂漠の相当奥地であったが、運転手は、一番高い砂丘に車を乗り上げると、やおら携帯で通話を始めたのである。試しに私も携帯にスイッチを入れ日本を呼び出してみると、なんと地平線の真っ只中というのに、ごく通常の感覚で妻の声が聞こえてくるではないか!私はあっけにとられ、いま自分がどこに立っているかを興奮ぎみにまくしたてるのだが、こうして携帯が通じている以上、サハラは、もはや秘境ではないことを思い知らされたのであった。

ユーラシアニュース 連載91

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地平線  リビア砂漠の旅-1


 リビア南部、フェザン地方の砂漠に行ってきた。サハラへの旅は1993年以来、そしてフェザンを訪れるのは、実に1975年以来のことだ。あの時は、ヨーロッパからランドローバーを持ち込んで、アルジェリア、ニジェールなどに半年以上滞在した後、リビアからチャドのチベスティー目指して南下しようとしていた。リビア南部の国境警察で、チベスティーは政情不安で危険だと説得され、かわりにチャドから北上してくるラクダキャラバンを追跡しながら北に戻っていったことだった。
 1993年にも、やはりチベスティーに行こうとして、ランドローバーでチュニジアから首都のトリポリに入ったが、リビアの工作員が1988年に起こした、パンナム機爆破事件に対する国連制裁が来週にも発令されるという、緊迫したタイミングにぶつかってしまった。日本大使館から即刻出国を求められ、泣く泣く退却していったという苦い思いがある。
 カダフィーのリビアがすっかり温和しくなり、観光誘致をはじめたのは10年ほど前からのことだ。だが日本で情報を集めようとすると、パスポートへのアラビア語併記だの、個人旅行の制約といった、面倒な話ばかりでうんざりしているところに、紹介されたトリポリの現地旅行社とコンタクトしてみると、何もしなくてよろしい、ビザは空港で取れるよう手配するから手ぶらで来ればいい、とのことだった。
 旅程など確認のEメールを6,7回交わしたあげく、ドバイ乗り継ぎでトリポリに到着。砂漠の町セブハに夜のフライトで降り立った翌朝9時には、ガイド兼コックとドライバーと3人で、キャンプ用具一式を満載したランドクルーザーで、地平線に向かい走っていたのである。最初の目的地は、リビア砂漠最奥部にある巨大クレーター、ワウ・アンナムス、2日間のドライブだ。昼過ぎまで走ったところで舗装道路が終わり砂の道に突入した。ナツメヤシの木陰で簡単な昼食をすませたあと、再び走り始めた私たちは、程なくして360度砂の地平線のなか、”永遠のサハラ”の真っ只中に突入していったのである。
 ベテランドライバーは、深い砂の地平を快調に飛ばしてゆく。タイヤが軟弱な砂を捉えるたびに、水上をゆくモーターボートが軽くバウンドを繰り返すのに似た、砂地独特の揺れを感じながら、久々に砂漠を走る興奮がよみがえってきたのだった。むかし自分でハンドルを握っていた当時なら、恐怖が先に立ち、たった一台ではとうてい乗り出してはゆけない地平線の道である。
 それにしても、サハラの旅がなんとイージーにできる時代になってしまったことか。1970年代から’80年代にかけての頃、サハラを自由に走ろうと思えば、まずロンドンでランドローバーの中古車を購入してヨーロッパを南下し、装備を調えて、マルセイユからフェリーでアルジェに向け出港するところから始まったものだった。
 季節は11月、まったく暑くはなく昼間でもせいぜい摂氏25度といったところか。極度に乾燥しているため、汗をかくこともなくいたって快適だ。陽が傾くにつれ肌寒くなってきた。夕刻まで走り、砂地にテントを張った。月は無く、闇が濃くなるにつれ、サハラならではの凄い星空が天空を覆いつくした。マットレスに横たわり、小さなグラスに注がれた俗にリビア・ウイスキーと呼ぶ濃厚な茶を、生のウィスキーさながらに、チビリ、チビリ煽ると、独特の甘さと苦みが臓腑に染み入った。こうして久々に、”サハラ”を呼吸する至福にひたったのだった。

ユーラシアニュース連載 90

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