エチオピア撮影ツアーに、初めて同行することになりました。
1980年にナイル川の取材で訪れ、独特のキリスト教文化に魅了され、以来1997年まで繰り返し訪れた、私にとってもっとも思い入れの深い土地です。伸びやかな風土、真摯な祈りの姿、生きる喜びと哀しみ、、、。あのエチオピアが13年を経てどう変わったのだろうか。
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エチオピア撮影ツアーに、初めて同行することになりました。
1980年にナイル川の取材で訪れ、独特のキリスト教文化に魅了され、以来1997年まで繰り返し訪れた、私にとってもっとも思い入れの深い土地です。伸びやかな風土、真摯な祈りの姿、生きる喜びと哀しみ、、、。あのエチオピアが13年を経てどう変わったのだろうか。
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カトリックの総本山であるローマのヴァチカン市国、サン・ピエトロ広場には見事なオベリスクが聳えている。その頂に十字架を立てキリスト教信仰のシンボルとしているが、もとは帝政ローマ時代にエジプトより運び出され、この場所にあった競技場に建てられたものであった。ポポロ広場をはじめとしてローマ市内には、他に13本ものオベリスクが建っており、すべて古代ローマの時代にエジプトから略奪したものである。パリにもロンドンにも聳えている。コンコルド広場のオベリスクは、ナポレオンのエジプト遠征を契機に、ルクソール神殿から運んできたものだ。ヨーロッパにとってエジプトは文明の源流であり、何千年を経ても風化しない鋭い花崗岩の柱は、エジプト文明、永遠性の象徴であった。
大英博物館、パリのルーブルをはじめとする世界の博物館が所蔵する、おびただしい量の古代エジプト美術品やミイラの数々、、、。ちなみに欧米諸国の主要な博物館で所蔵されているエジプト関連品の総数は優に80万点に及ぶ。だが一方で、西欧帝国による国家事業としての収集がなされていなかったとしたら、エジプト美術は散逸し、その大半が行方知れずになってしまったことも事実であろう。ちなみにカイロ・エジプト博物館収蔵品の総数は18万点である。
古代エジプト文明は3000年以上にわたって栄えてきた。その間、歴代のファラオは競って巨大神殿の造営に励み、またミイラとともに夥しい副葬品が埋葬されてきた。それらの墳墓は古代エジプトの時代からことごとく墓泥棒たちの餌食にされてきた。カイロ博物館の厖大な展示品のほぼ三分の一を占めているのは、奇跡的に盗掘を免れ、1922年に発見されたツタンカーメン王の絢爛たる副葬品の数々である。若くして亡くなった無名のファラオの副葬品にしてこの規模であることからして、大規模な墳墓を建造した、歴史に名を残す権力者たちの副葬品といえば想像を絶する宝の山であったろう。
「王家の谷」の王墓は、ファラオの権力が盤石であった19王朝(紀元前1200年頃)の頃までは厳しく管理されていたが、20王朝末期頃から墓荒らしが横行しはじめ、25王朝末期(紀元前660年頃)には盗掘し尽くされており、考古学者やヨーロッパの収集家が押し寄せるはるか昔に、ファラオの財宝は永久に消え去っていたのであった。だが神聖なるファラオのミイラだけは、神官たちによって何度も移し替えられ、1870年代になって、王家の谷の秘密の墳墓で発見されたのだった。
CTスキャンやDNA鑑定など、先端科学を駆使してこれらのミイラを調査した新たな発見が、最近センセーショナルに報じられている。ツタンカーメンのミイラ調査では、それまで有力だった、首を殴打されたという「暗殺説」が否定され、左足に負った傷が原因で併発した感染症が死因であったことが有力となった。また2007年には、行方知らずになっていたハトシェプスト女王のミイラが特定された。ひどい虫歯に悩まされ、歯肉炎治療の抜歯による膿が全身を蝕み、死因はガンか糖尿病の合併症で、50歳前後で亡くなっていたことまで突きとめられたのであった。
権力の頂点を極め、ハトシェプスト(”もっとも高貴なる女性”の意味)を名乗った伝説の女王晩年の、なんとも赤裸な事実を、3500年後の私たちは暴き出しているのである。
ユーラシアニュース「地平線の彼方へ」-連載86