ベトナムに行ったのは1994年、今から15年も前のことになる。世界を巻き込んだベトナム戦争の大きなうねりをひしひしと感じながら、多感であった青年期を通過した私たちの世代にとって、ベトナムは格別の思い入れを込めた存在であった。1ヵ月を費やした雑誌の取材で、メコン・デルタから、最北端の中国との国境の町、ラオカイまで、外務省より派遣された女性通訳と2人でベトナムのほぼ全土を巡った旅の印象は、今も鮮烈に脳裏に畳みこまれている。
ホーチミン市の近郊ジャングルでは、かつてベトコンがゲリラ戦を戦い抜いた狭い地下トンネルを、汗だくになってくぐった。古都フエにある仏教寺院では、1963年に旧サイゴンのアメリカ大使館前で焼身自殺した高僧が、現場まで乗りつけた、古ぼけた小型のセダンが展示されてあった。ガソリンを浴び、全身炎に包まれているのに、合掌し座した姿勢を崩さぬ僧侶の、凛とした姿に言葉にならぬ衝撃を受けたことだった。高校生のとき脳裏に刻んだあの写真で、燃え上がる僧侶の背後に写っていた、その自動車なのである。枯れ葉剤の犠牲者である、ホルマリン漬けにされた奇形児の標本。首都ハノイの池には、撃墜された米軍機の残骸がそのまま放置されてあった。
それら歴史の重みを背負った戦争遺跡もさることながら、長かった戦いの傷がいまだあちこちに露出している中にあって、たくましく生きる民衆の息吹が鮮烈だった。爆音をとどろかせ疾走するおびただしい数の小型バイク、そしてメコンデルタの運河を、朝市を目指す手こぎ舟の群れ。どこに行っても、人いきれと湿気で蒸せかえる市場は活力に満ちあふれていた。
そんな混沌のベトナムにあって、時代を超えた夢幻の世界にいざなってくれたのが、ハロン湾だった。首都ハノイから東に200キロほど行ったハロン湾には、大小3000もの石灰岩の島々が浮かんでいる。浸食を受けた奇岩が淡く霞む眺めは、海の桂林とも讃えられてきた。当時のベトナムは何もかもが安かった。ある日の午後、中型の観光船を一人で借り切り、贅沢な島巡りに出かけていった。べた凪で鏡のように揺らめく海原を船は進んでゆく。出航して間もなく、海上を、何匹ものカラフルな蝶々がはるか沖合の小島めざして羽ばたいていたのは不思議な眺めだった。海面低くを幻影かと見紛う姿で羽ばたいているそれらの蝶をゆっくりと追い越しながら船は進んでゆく。島々は太陽の位置によって微妙に表情を変え、そして船の移動とともに淡いシルエットとなって重なり合い、一瞬後には徐々に離れてゆく。大小さまざまな奇岩が織りなす景観は、墨絵の世界にはまり込んだかのような情緒があった。そしてあちらこちらの島影には、漁で生計を立てているのであろう、水上生活の小型船がひっそりと停泊していた。
私が訪れた翌年、1995年にはアメリカとの国交が回復し、ベトナムの経済成長はいよいよ加速して、近年は揺るぎないものとなっている。都市には高層ビルが林立し、観光客も桁違いに増え、私たちの世代がヒリヒリと感じて育ってきた、あのベトナム戦争時代の片鱗がどの程度に残っているのか見当もつかない。機会があればそれらを確認するために、一度ベトナムに行ってみたいと思う。
ユーラシアニュース「地平線の彼方へ」-連載88