タラ・ベット(タラ酒バー) エチオピアの旅-1


 今年の1月、エチオピアに行ってきた。最後に訪れたのが1997年であったから13年ぶりということになる。青ナイルの取材でエチオピア高原にはじめて行ったのは1980年のこと。それまで北アフリカで慣れ親しんでいた、砂漠のイスラーム文化圏とはまったく異質な、エチオピア高原独自のキリスト教文化との出会いは私にとって鮮烈だった。その後10回訪れ、延べにして12ヶ月をこの国で過ごしてきた。
 ’91年に現在の政権が内戦に勝利して権力を掌握するまで、独裁的な社会主義政権のもと、エチオピア各地で反乱が勃発し、内戦に疲弊して経済はどん底に喘いでいた。’84年には、旱魃に端を発した飢餓が全土を覆い、100万人が餓死するという、暗黒の中世のような悲惨に見舞われ、貧困アフリカの象徴としてレッテルを貼られてしまっていた。だが貧しさの中にも、篤い信仰心に裏打ちされた独特の情緒があふれていて、中世か聖書時代にタイムスリップしたかのような不思議な輝きを私は感じていた。
 そのエチオピアがようやく安定し、経済の好転が伝えられるようになったのは5~6年前からのことだ。さらにこの2年ほどは、産油国を除いたアフリカ諸国のなかでもっとも高い経済成長をとげているというから、苦難の時代を骨身にしみて知っている私のような者にとっては、これは奇蹟と言うしかない変わりようである。
 そんな折り、或る旅行社から、撮影ツアーの講師としてエチオピアに行かないかと誘われたのだった。わずか1週間の滞在であったが、高層ビルがあちこちに建設中の首都アディスアベバの変貌ぶりに驚嘆する一方で、農村や地方都市の下町などに流れている、伸びやかで人情味あふれる昔ながらのエチオピアに郷愁をそそられた日々だった。
 北部に行って、どこまでも完全舗装された街道に時代の流れを感じた。昔は、内戦の激しかった北部一帯の、砂埃舞うがたがた道のそばには、戦車や軍用車の残骸があちこちに放置されていた。反政府軍の攻撃を受けて敗走した、士気の上がらぬ旧政府軍の兵器である。一方で蔓延する飢餓を思いながら、これら戦車一両のカネで、いったい何万人の子どもが救えただろうかと暗澹たる気持ちで眺めたことだった。内戦終結から20年近く経ち、戦車の残骸はさすがに片付けられていたが、交通量のほとんどないアスファルトの道を、ひたすら歩いてゆく村人たちの姿は、昔と変わらぬ光景だった。
 エチオピアではどの地方に行っても、週に一度、大規模な定期市が開かれている。家畜からあらゆる日用品まで取引される定期市は、村人たちにとっては数少ない現金収入の機会であり、格好の情報交換の場なのである。一羽の鶏や、ヒョウタン容器に詰めた蜂蜜などを抱え、あるいは手ぶらのままで、近郊の村々から、ときには半日をかけて市の開かれる村まで歩いてくるのである。一様に手編みのくすんだ綿布を着た集団が、列をなし足早に歩く姿に、以前に遭遇した難民たちの姿が一瞬オーバーラップして見えた。
 市に来た村人たちの楽しみは、この写真のように、一杯のタラ酒をたしなむことだ。大麦を発酵させた昔ながらのビールである。そして夕刻、高原特有の強い日射しがつくる長い影を引きながら、ささやかな楽しみに満ち足りて、やや千鳥足ぎみに、長い道のりを帰って行く村人たちの姿は昔と変わりなかった。

ユーラシアニュース 連載93

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