会見の幕舎 エチオピアの旅-2


 岩盤を掘り抜いた大規模な岩窟教会で知られる、エチオピア正教の聖地ラリベラ。早くから世界遺産に登録されながら(1978年登録)、内戦のために閉ざされ荒廃していたが、今やエチオピア最大の観光地と化して、その変貌ぶりには目を見張るものがあった。以前の倍以上にも拡張した町のあちこちには観光ホテルが建ち、登校する子どもたちは、誰もが真新しい制服を着て、垢抜けして晴れ晴れとしており、苦難の時代などまったく知らぬ新世代が育ちつつあることを実感させられた。思えば豊かになったものだと。
 私がはじめて訪れた1981年当時、ラリベラは言葉に絶するほどに貧しかった。村人の大半は、汚れて擦りきれたボロボロの民族衣装をまとい、大半が裸足だった。傾きかけたトタン屋根の粗末な家々が軒を寄せ合う集落は、あっけらかんとした文字どおり乞食部落であった。
 ’81年当時の定期便はDC-3型機だった。飛行中、機体の隙間から轟音と寒風が吹きこんでくる恐怖の定期便が着陸したラリベラの滑走路は、モロコシを収穫した後のむきだしの畑そのもので、畑も道路もぬかるむ雨期になると、交通が途絶する最果ての地であった。
 ’83年からは、ティグレ解放戦線の支配地域となったために立ち入ることはできず、そして翌年’84年に起こった大飢餓では、周辺の山岳から集結した難民であふれかえり、さながら暗黒の中世の様相を呈していた。そしてミサの度に教会に押し寄せるボロをまとった難民たちが、生存を賭して捧げる一途な祈りの姿には、剥きだしの魂の深淵を見る思いだった。
 以前は国営だったロハ・ホテルに入って、なんとも懐かしいものに再会した。それは’81年に私がラリベラで撮影した写真を使って制作された、政府観光局のポスターである。前回’97年に来たときにも同じ場所に掲げられていて、当時大学生になっていた、写真の少年僧と再会して時代の流れを実感したことだった。あれからさらに13年を経て、手垢がついてやや色褪せたポスターをしげしげと眺めながら、薄暗い廊下の一角で、今後も生き続けるに違いない、まるで岩窟教会のイコンのような存在と化した自分の作品に、エチオピアに流れている永遠の時間を思い感慨深いものがあった。この作品は、ゲオルギウス・アツビという、聖ゲオルギウス(セント・ジョージ)を讃える祭礼を撮影したものであるが、じつは今回の旅は、この祭りの日程に合わせるかたちで企画されたものである。
 モーゼがシナイ山で神から授かった十戒の石版を収めたアークは、現在もエチオピアに秘蔵されていると信じられている。エチオピア正教では、各教会の至聖所に、十戒の石版のレプリカであるタボットが、御神体同然に収められている。祭りになると、タボットは錦に包まれ司祭の頭上に載せて運び出され、広場に張られた会見の幕舎に一晩収められて、信者たちは熱烈な祈りを捧げる。古代ユダヤ教より受け継がれた、旧約聖書の典礼が、3000年の時を越えてエチオピアでは受け継がれているのである。
 1月25日午後、鋭い日射しが降り注ぐなか、カラフルな日傘に守られてタボットの行進がはじまった。

                                   ユーラシアニュース 連載94

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