いま写真が世の中に溢れ、一枚の写真の価値が軽くなっているように感じる反面、豊かな自然と人間の姿を優れた感性と深い眼差しで捉えた写真の魅力と輝きは失われず、一枚の写真の重みは増しています。写真の持つ表現力、可能性、伝達力などについて、行動する写真家三人のパネリストが語る。
月別アーカイブ: 2010年7月
十字架の岩窟教会 エチオピアの旅-3
ラリベラには、凝灰岩を掘り抜いた11の教会がある。12世紀から13世紀にかけて君臨した、ザグウェ王朝のラリベラ王が、「新たなエルサレムを築け」という神の夢告にしたがって建造をはじめたと伝えられる。その時代、キリスト教国エチオピアは、周りをイスラーム圏に取り巻かれ孤立しており、エルサレムへの巡礼が困難を来していた。岩窟教会はいずれも大規模なもので、周囲を12メートルほど掘り下げて建造された写真の、ベタ(教会の意)・ゲオルギウスでも、十字架の中が掘り抜かれて礼拝堂になっている。
この教会から前日に運び出されて、広場に張られた「会見の幕舎」に安置され、夜を徹して祈りが捧げられた二枚のタボットは、午前10時過ぎ、吹き鳴らされる角笛を合図に、錦に包まれ司祭の頭上に載せられて、教会への、2キロほどの帰路の行進がはじまった。十字架と、馬上から龍を退治するセント・ジョージの大きなキャンバスに先導された行列が進むに従い、村人たちが次々に加わり、巨大な流れに膨れあがっていった。
そして道半ばに差しかかったところで行進は停止して、タボットを清める薫香が焚かれ、司祭たちのダンスがはじまった。女性たちが一斉に、舌を小刻みに震わせる〈エレレレレレ、、、〉という甲高い裏声、エラルを発して神を讃えると、着飾った30人ほどの司祭が2列に向き合って、シストラムを振る、シャン、シャンという金属音でリズムをとりながら、独特の調子で歌いはじめた。遠い古代からのリズムというか、どこの音楽とも似ておらず、強いて探すなら、日本の御詠歌に近い調べである。程なくしてケベロと呼ばれる、牛革を張った太鼓が加わり、力強く、次第に速くなるテンポに煽られるように、2つの列は前後に一進一退を繰り返しながら、司祭たちのダンスは熱を帯びていく。
―― ダビデとイスラエルの全家は、琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った ――
これは、旧約聖書、サムエル記下が伝える、契約の箱を前にした古代ユダヤ教の儀礼を記述したものであるが、目の前で繰り広げられているのは、まさに3000年昔の宗教儀礼の再現なのである。現在のイスラエルにもない、古代ユダヤ教直系の信仰が息づいている、エチオピアでしか観ることのできない旧約聖書の世界である。はじめてエチオピアを訪れた1981年以来、これまで何度も観てきた踊りであるが、17年ぶりで久々に眺めながら、3000年昔に伝えられて以来、エチオピア高原で独自に醸成された信仰の厚みを再確認する思いであった。
さらに2度、道中でダンスが披露された後、出発から2時間を費やして、タボットはようやくベタ・ゲオルギウスに戻ってきた。高原の太陽が容赦なく降り注ぐなか、教会の周りは辛抱強く待つ村人たちによって埋めつくされていた。タボットの入場とともに、女性たちが一斉に発するエレルが、ひとしきり、蝉時雨のように沸きあがる。鮮やかな日傘に守られたタボットが定位置に着くと、教会の縁に整列した司祭たちのダンスがはじまった。御詠歌に似たテンポで司祭たちの歌が延々と流れるが、ここでは道中で観られたような熱狂が沸きあがることなく、シストラムを振るたびに発する、シャン、シャンというリズムに合わせて神を讃えるダンスが、あたかも羊皮紙を束ねた3000年の史書をめくり続けるかのように、厳かに、そして淡々と繰り広げられたのであった。
ユーラシアニュース 連載95