最終回 ラダックの老僧


20代半ばでサハラを訪れ、その圧倒的なスケールと、過酷な風土を生き抜く人々の強靭さに魅了されたことが契機となって、これまでドキュメンタリー写真を撮り続けてきた。
1970年代前半、今から40年前の日本にはサハラ内陸部の情報など皆無に近く、いわば地図上の空白地帯にも等しい土地だった。それだけに、砂の地平で出会った人々の営みは鮮烈だった。
一本の井戸を頼りに、オアシスが恵んでくれるわずかな収穫を糧として、淡々と世代を重ねてきた人々。あるいは、砂と風に翻弄されながら家畜を追って寡黙に生きてきた遊牧民たち。人々の心を占めているのは、神によって生かされていることへの感謝と、神への畏れという感情であった。宗教などとは無縁な、古いものをどんどん脱ぎ捨てて行った先にこそ豊かさがあるとした、高度経済成長時代の世相のなかで育った者にとって、環境によって人間はこうも違ってくるのかという驚きがあった。
一方で、砂漠は私を虜にした。当時サハラを自由に旅するには、ヨーロッパで車を用意して持ちこむしかなかった。手間と時間のかかる旅だったが、砂漠に入ってしまえば、どこにキャンプを張るのも自由だった。どれほど暑い一日であっても、陽が傾くにつれ砂漠特有の放射冷却が作用して気温はみるみる下がってゆく。やがて陽が落ち、刻一刻と濃くなってゆく夕闇のなか、澄み渡った空一面を満天の星々が覆いつくす。生き物の気配も、音もない、乾ききった空間を何日も旅することで、他では感知できなかった精神空間を持てたと思う。
以来40年近く、好奇心のおもむくままにじつに頻繁に旅を重ねてきたが、息抜きのための観光旅行であったことは一度もない。常になにかを持ち帰るための旅であったし、集中して人間と向き合うために辺境の地を旅してきた。とくに、1980年代から’90年代半ばにかけて、日本でもグラフ誌の全盛期であり、年間のうち半分ちかくを海外取材に費やしてきたが、それは、地球上の辺境地域と日本という、極端から極端に振れる、振幅の大きな振り子運動を繰り返すのにも似たスリリングな日々の繰り返しだった。
継続的に訪れた土地は、サバンナの最奥地やエチオピア、チベット、サウジアラビアなどであったが、それぞれの土地に蓄積されてきた文化の原型が、最後の輝きを放っていた時代だったような気がする。それ以降も旅は続けているが、猛スピードで襲来したグローバリズムのなかで、どの土地にあっても、憑き物が落ちてしまったような印象を受けるのである。世界は平らに、フラットに、そして破格に便利で効率的になってしまった。それだけのために、風土に根ざした伝統文化がどれほど変質してしまったことか。
去年の11月に、17年ぶりにサハラに行ってきた。コック、ドライーバーとともに2週間にわたってキャンプをしながら砂の地平で過ごしたが、嬉しかったのは、むかし身体で覚えていた砂漠での感覚が、日々を重ねるにつれ甦ってきたことだった。砂と風と星々の空間で、自由を満喫できていることに感謝の気持ちでいっぱいになった。これからも体が動く限り旅を続けようと思う。
2002年12月以来8年に及んだ連載を、100回を区切りに幕を閉じることにしました。読者の皆さんにとってもよき旅が続くことを願いつつ。

野町和嘉オフィシャルサイト

西ペルシア撮影ツアー



古代ペルシア以来の文化を受け継ぐイランには、多彩な風土と融合した様々な顔があります。今回は、2010年新たに世界遺産に登録された、中世以来のペルシアの市場を現在に受け継ぐタブリーズのバザールと、独特の暮らしを守るクルド人の村々を中心に、イラン西部の高原地域を巡ります。西側と一線を画して独自の路線を行くこの国には、悪しきグローバリズムの流れは波及しておらず、ペルシア独特の情感が脈々と流れています。

詳細は、

ザンスカール ラダックの旅-4


 ヒマラヤ山中を、東から西に流れるインダス川の渓谷に沿ったラダック地方とは、6000メートル級の山脈によって隔てられた、その南側を走る孤立した谷がザンスカールである。村々は、標高3500~4000メートルの谷あいに点在しており、農業と牧畜で7000人ほどが、昔ながらの暮らしを続けている。
 1980年になって峠越えの自動車道がようやく開通するまで、山越えでしか到達できない最辺境の地であった。道路が通じたとはいっても標高4400メートルのペンシラ峠は一年の半分は雪に閉ざされ、車が越えられるのは7月から11月上旬まで。その間でも雪が積もってしまえば、崖っぷちを縫うように走る、落石だらけの悪路に除雪などという手段はないため、道は自動的に閉鎖となる。ザンスカール地方は、孤立した谷あいにあって独特の文化を保持してきた。
 長い冬の間、外界との唯一の連絡路は、凍結したザンスカール川を、途中、洞窟などでビバークしながら100キロ以上も歩いて、ラダック中心の町レーを目指すのである。20年ほど前に、フランスの写真家、オリビエ・フェルミが、厳冬の氷原を行く村人たちを追跡した写真集を出版して話題になったことがある。大きな荷を背負って吹雪の川床をひたすら歩く村人たちの、生きる凄味に圧倒されたが、現在でも、冬のあいだに外界と接触する手段は、凍結した川床を歩いて脱出する以外にないのである。
 ラダック中心の町レーからザンスカールまでは、ザンスカール山脈を大きく迂回するかたちで、車で4日間の行程である。ラダック西部カルギル地区に入ると、それまでの仏教圏からイスラーム圏に変わり、人種、言語、村々の佇まい、服装までが、がらりと変わる。そこは、チベットから西に広がった仏教と、西方より浸透してきたイスラームの接点であり、あまりにも隔たりの深い二つの文化は、何世紀という歴史を経ても融合することなく、水と油のようにくっきりと層をなして一つの谷あいで接しており、そして紛争を繰り返してきた。さらに谷を取り巻く稜線の尾根は、インドとパキスタンが対峙するカシミール紛争の最前線でもあるのだ。
 それまで不殺生に徹した仏教圏のベジタリアンに慣れていた味覚に、カルギルのレストランで出てきた、こってりと煮込んだ羊肉料理が刺激的だった。だが距離にして70キロほど走ってザンスカールの仏教圏に差しかかると、人種も集落の佇まいも再びがらりと変わり、そして、豆と野菜を煮込んだだけの味気ないベジタリアンに戻ってしまった。
 ザンスカールへの最後の難関であるペンシラ峠では、眼下に長大な氷河を遠望でき、ヒマラヤの奥深さに心を打たれた。ところが、ザンスカール中心の町、パドムに到着する前後から、発熱と高血圧という、典型的な高地障害の症状に見舞われるようになった。20年以上も前からチベットに通い、高地には順応できる体質とタカをくくってきたが、すでに3週間近い高地での日々が、還暦を越えた身体に無理を強いているらしかった。僧院を訪れ、見るからに純朴な僧侶たちの日々の姿を撮影していたが、午後遅くになると決まって体調は悪化するばかりで、目的にしていた祭りまであと2日を残して、仕方なくザンスカールを去ることにした。
 それから4日後、デリーの空港に降りたってまもなく、症状は嘘のように回復したのだった。

ユーラシアニュース 連載99