ヒマラヤ山中を、東から西に流れるインダス川の渓谷に沿ったラダック地方とは、6000メートル級の山脈によって隔てられた、その南側を走る孤立した谷がザンスカールである。村々は、標高3500~4000メートルの谷あいに点在しており、農業と牧畜で7000人ほどが、昔ながらの暮らしを続けている。
1980年になって峠越えの自動車道がようやく開通するまで、山越えでしか到達できない最辺境の地であった。道路が通じたとはいっても標高4400メートルのペンシラ峠は一年の半分は雪に閉ざされ、車が越えられるのは7月から11月上旬まで。その間でも雪が積もってしまえば、崖っぷちを縫うように走る、落石だらけの悪路に除雪などという手段はないため、道は自動的に閉鎖となる。ザンスカール地方は、孤立した谷あいにあって独特の文化を保持してきた。
長い冬の間、外界との唯一の連絡路は、凍結したザンスカール川を、途中、洞窟などでビバークしながら100キロ以上も歩いて、ラダック中心の町レーを目指すのである。20年ほど前に、フランスの写真家、オリビエ・フェルミが、厳冬の氷原を行く村人たちを追跡した写真集を出版して話題になったことがある。大きな荷を背負って吹雪の川床をひたすら歩く村人たちの、生きる凄味に圧倒されたが、現在でも、冬のあいだに外界と接触する手段は、凍結した川床を歩いて脱出する以外にないのである。
ラダック中心の町レーからザンスカールまでは、ザンスカール山脈を大きく迂回するかたちで、車で4日間の行程である。ラダック西部カルギル地区に入ると、それまでの仏教圏からイスラーム圏に変わり、人種、言語、村々の佇まい、服装までが、がらりと変わる。そこは、チベットから西に広がった仏教と、西方より浸透してきたイスラームの接点であり、あまりにも隔たりの深い二つの文化は、何世紀という歴史を経ても融合することなく、水と油のようにくっきりと層をなして一つの谷あいで接しており、そして紛争を繰り返してきた。さらに谷を取り巻く稜線の尾根は、インドとパキスタンが対峙するカシミール紛争の最前線でもあるのだ。
それまで不殺生に徹した仏教圏のベジタリアンに慣れていた味覚に、カルギルのレストランで出てきた、こってりと煮込んだ羊肉料理が刺激的だった。だが距離にして70キロほど走ってザンスカールの仏教圏に差しかかると、人種も集落の佇まいも再びがらりと変わり、そして、豆と野菜を煮込んだだけの味気ないベジタリアンに戻ってしまった。
ザンスカールへの最後の難関であるペンシラ峠では、眼下に長大な氷河を遠望でき、ヒマラヤの奥深さに心を打たれた。ところが、ザンスカール中心の町、パドムに到着する前後から、発熱と高血圧という、典型的な高地障害の症状に見舞われるようになった。20年以上も前からチベットに通い、高地には順応できる体質とタカをくくってきたが、すでに3週間近い高地での日々が、還暦を越えた身体に無理を強いているらしかった。僧院を訪れ、見るからに純朴な僧侶たちの日々の姿を撮影していたが、午後遅くになると決まって体調は悪化するばかりで、目的にしていた祭りまであと2日を残して、仕方なくザンスカールを去ることにした。
それから4日後、デリーの空港に降りたってまもなく、症状は嘘のように回復したのだった。
ユーラシアニュース 連載99